アマンダ・ゴーマン ドイツ語訳をめぐる騒動(や)



本来、私がいつもここで書いている「旅の思い出」とは関係のないことだけれども、故郷やアイデンティティ、言葉をめぐる事柄は関心事でもあるので、アマンダ・ゴーマンのドイツ語訳をめぐって起こっていることを、まずは自分の思考の整理とのちの備忘録のためにまとめておきたいと思った。長くなるけれども、よければ読んでください。


1 アマンダ・ゴーマン「The Hill We Climb」について


一応簡単に振り返っておくと、アマンダ・ゴーマン(Amanda Gorman)は1998年ロサンゼルス生まれの詩人で(ハーバード大卒、スゴー!)、今年1月のバイデン米大統領の就任式で自作の詩「The Hill We Climb」を朗読して一躍有名になった。その様子は、以下のビデオでも見られる。

この詩をまとめた本は、2021年3月ごろから各国語版で刊行されていて、ベストセラーになっている。(アメリカ版は、ペンギンランダムハウス傘下のViking Booksから刊行。)


2 オランダ語訳をめぐる議論


なぜこの詩の「翻訳」が問題になったかというと、オランダ語版をめぐって騒動があったからだ。それについてはすでに日本語でも報じられているので、リンクを貼っておきます。

要旨だけを説明しておくと、本当は、去年オランダで初めて国際ブッカー賞を受賞したMarieke Lucas Rijneveld(theyで呼んでほしいと公言している)がオランダ語訳することが決まっていたのだけれど、白人であるマリエケが翻訳することに批判が起こり、翻訳を辞退することになったという。

ちなみにこのニュースには比較的早くに気が付いたのだけれど、それはマリエケの英語訳の契約にオランダ文学基金で働く知人が関わっていて、版権管理者もとても良い人で連絡を取り合っていたからだ。私は「あ、マリエケが大変だなあ」と反射的に思っては、深く考えることはしなかった。

その後、カタルーニャ語をめぐっても議論が起きている。

3 ドイツ語翻訳者について


3月末、200年以上の歴史を持つHoffmann und Campe出版社からドイツ語版が刊行された。


翻訳者は3人のチーム、

左から、『Sprach und Sein(言語と存在)』などのベストセラーがあり、トルコ系の出自を持つジャーナリストのKübra Gümüsay、ドイツの有力紙などで記事を多く発表しているジャーナリストのHadija Haruna-Oelker、そしてディッキンソンやソローなどのドイツ語訳を出している翻訳家のUda Strätling。

このうち、Kübra Gümüsay(無理やりカナにすると「キュブュラ・ギュミュシャイ」)は、フェミニズムとイスラムのことを書いていることもあって、以前から気になる存在だった。そんな彼女が3月28日に自身のFacebookを更新して以下のような声明を出した。

「やったー! 3月30日にアマンダ・ゴーマンの「The Hill We Climb (丘を登って)」のドイツ語版が、Hadija Haruna-OelkerとUda Strätling、そして私の翻訳でCampe出版社から刊行されます。
多くの人は報道などで、誰に翻訳を依頼するかという終わりのない議論についても(その過程で、アイデンティティポリスティックについて繰り返される議論も)、すでに何かしら耳にしていると思います。その議論が起こるずっと前に、私たち3人は翻訳者として選ばれていただけでなく、翻訳自体もすでに終えていました。だからこそ私にとって、この議論の中で立ち現れたかのような嫌な面は、より異様な形で目に映りました。
だって、3人での翻訳は本当に楽しかったから! 私たちは議論を交わして、互いの意見を聞き、それぞれの意見を比べて、試して、実験してみました。テキストの中にある、響きや内容、音やイメージ、歴史的な、そして挑戦的な表現、意味合いや苛立ちを、ドイツ語の中で一つにしようと、私たちは力をつくしました。完璧で、正解な一つの翻訳というのは存在しないでしょう。そうではなく存在し得るのは、これらすべての要素を一つの響きにしようとする試みだけです。
最初の読者たちが言ってくれたのは、私たちが作り上げた翻訳が「傑作だ」ということでした! でも、もちろん読者の一人ひとりが判断すべきことだと思います。
私たちは、このような実験の一部となれて、喜んでいます。白人が黒人のテキストを翻訳することはできるでしょう……もし訳者がきちんと敏感である限りには。当然、私たちの方法をそのまま実践しなくてはいけない、というわけでもありません。唯一の方法などではなく、たくさんある方法の一つなのですから。

私たちの方法をそのまま行う代わりに、この実験を違った仕方で見てみるとよいでしょう。社会的な責任に向き合い、挑戦に取り組んで、新しいやり方に苦労し、試みることが、どんなに素敵で暖かい経験になり得るかということです。私たちの実験は失敗する危険性もありました。そしてうまく行く可能性も。

だから、私たちに必要なのは、場所なのです。私たちの未来や、自分たちのアイディア、そして目標について試すことのできる場所。失敗して、学んで、やり直す。今回の実験は、そんな場所、そんな道を作り出しました。丘を登って、ね。」


その後、ドイツメディア各社は翻訳が刊行されることについて報じ、3月29日のDeutschlandfunkは、「どうやって『私たちの登る丘』を翻訳するか?」と題した記事の中で、Kübra Gümüsayの別のコメントを紹介している。

「自分の人種カテゴリーからしか発言してはいけない、いつも「私は白人だ、私は黒人だ、私はムスリムだ、私はゲイだ」と言わなければいけない、というのは目指すところではありません。それぞれの立場で、自分が何者であるかについて掲げるのは、社会の中にある私たちを分断する壁を可視化させようとする状況下のみ必要になるのです。そして次には、この壁を壊して、人々が本当に自分を信じることができ、敬意を払って、平和に互いに暮らすことのできる、よりオープンで多面的で、互いに繋がりのある社会にしなければいけません。」

この感動的なコメントを読んで、私は思った。「めでたしめでたし。これで、別人種であっても翻訳できるってことがわかったね。日本人である私もいろいろ翻訳できるね、よかったー」。しかし、いざ書籍が刊行されると、翻訳は各メディアで「酷評」されたのだ。


4 ドイツ語訳をめぐる評価


そうなんです、酷評につぐ酷評。全ての記事は追いきれないので、目についたものを並べてみます。

NDR(北ドイツ放送):「詩の持つ迫力が失われた」

特に議事堂占拠を指した箇所の翻訳についてニュアンスが失われたとする。詩の翻訳は難しいから、と、翻訳者自体には理解を示している。

BR(バイエルン放送)「なぜドイツ語訳はアマンダ・ゴーマンを正しく伝えないのか」

言葉の選び方によって、ヒップホップにも通じる詩のリズムや、活動家でもあるゴーマンが詩の中で表現した政治的ニュアンスが失われてしまったと指摘。

Die Presse「Wir(私たち)が多すぎて詩がダメになった」

Der Standard「ゴーマンの詩のドイツ語訳は最大限失敗した」

具体的な箇所を引用しながら、聖書の引用のニュアンスを落としている、韻が落ちているとする。翻訳者が文学者ではないことを指摘。

南ドイツ新聞「(ゴーマンの詩には様々なアメリカ史的文脈が含まれているので)翻訳は必然的に失敗する。」

Deutschlandfunk「完全に、音楽センスが失われた」


5 とりあえずの結論


RP(ライン新聞)によると、マリエケがオランダ語訳をすることについて異議を唱えた黒人ジャーナリストであるJanice Deulも、別にマリエケを攻撃するのが主目的ではなく、もっと適した黒人の訳者がいるのにどうして、という思いを吐露したのだという。

この騒動について、女性器の本などで名高いミツ・サンヤルは、黒人だけが黒人の翻訳をしろという主張ではなく、あくまで文学市場についてコメントをしている。つまり、(ドイツもオランダも)文学市場における多様性が全く足りていないのだ。

上に挙げた酷評の数々も、単に「翻訳者が黒人だけじゃなかったから、ダメだったね」と言うものはない。むしろ、詩は翻訳できるのかなどという根本的な疑問を投げかけながら(数日前に調べたときには、翻訳しないでもよいという読者の声も多数見かけた。ドイツでは英語ができる人が大多数なのも影響していると思う)、欠けてしまった(ヒップホップにも通じる)韻への感覚、アメリカの歴史的・宗教的コンテクストへの理解を求めるものだ。

単に、同じ肌の色で翻訳をしろ、という主張ではない。どこまで共通の土台となる知識や感覚を持っているのかを問題にしたのだ。確かに、人種的にも同じものを持つ人の方が、感覚的なところ、歴史的な文脈を共有している可能性が高いとも言えるかもしれない。(同じように、私は福島県出身なので、震災後の細かいいろんな事象で、同じ県民にしか分かり合えないことがあるという風にも考える瞬間はこれまで幾度もあった。)

もちろんあるテキストに含まれたすべての背景や引用を理解することはできないし、あまりに元言語を意識しすぎてターゲット言語の話者に親しみを起こさせない翻訳も中には存在するので、バランスも非常に大事であるとも思う。

私は、自分でも、この議論については肌の色が問題なのだと思考を切り捨てて思い込んできたので、そこから深く潜ることをしなかった。だからこそ、このドイツ語訳をめぐる議論自体からは多くを学んでいるし、やはり私としても「じゃあ英語で読めば」という結論には至らず、翻訳が存在することは素晴らしいことだと思う。きっと完璧な翻訳というのは存在しない。それでもテキストとの対話を続け、背景にあるものを知り、それを伝える試みは続く。だから翻訳って面白いと思うし、私もどんどん翻訳したい。

最後に。詩の翻訳と言うのは本当に難しい。単に意味を伝えるだけでは不十分で、おそらく、常に詩人との共同作業であるべきだ。最近「ノマドランド」を見た。諳んじられる詩の存在は、その人と言語との関わりや、生き方をも作っていくとわかる映画だった。私たちの生や存在は、言語によって規定されていく。詩というものをもっと大事にしたい。


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