後ろ向きの自転車出勤(や)

ラブピースクラブさんで(モテないのに)「モテ実践録」連載中です。




 会社から出社しろ、ということになったので、せめて対応はしてほしい、と上の人にメールした。というのも、比較的初期に、中間管理職の人が、高熱で、咳を撒き散らして出社し、そのあとに同僚の子どもが謎の体調不良になったからである。自分がどうこうと言うよりも、同僚の家族、もしくは、電車で一緒になる人の家族等々に感染してしまうかもしれないことが怖かった。それでも、きちんと対策するから出社しろ、と言う。とは言っても、窓を開けるぐらいで、おじさん社員は気がつくと無意味にマスクを外している。具合が悪い人が出社してくる。見えないものが見えてしまう、つまり、隣の人が何を考えているのかわからないのが見えてしまうのが、この、最近の、取れることのない疲れの原因であるかもしれないと思った。


 出社するにしても、絶対に電車には乗りたくない。乗りたくないので、何年前に買ったかわからない自転車を雑巾で拭いて(真っ黒になった)、必要なもの、つまり、空気入れやヘルメット、そして、自転車自体、さらに、雨の日も自転車で行けるように上下のレインスーツを買った。雨の日ぐらい電車に乗っていいじゃないか、と自分でも思う。あるいはバスで途中まで行って歩くとか。しかし、一番気をつけていた時期に、あんなに混んでいて、そして、たとえ時間をずらしても、空いた車内でマスクをしていない男性二人がなぜか自分の近くに来て大きな声で喋っていたあの車内、窓を閉めてしまう人がいるあの車内に戻れる気はしない。


 自転車にだってストレスは多い。自転車専用路には車が停めてあるし、だからといって道路側にはみ出すとクラクションを鳴らされる。道を歩く人は携帯を手に前を見ていないし、左右を見ずに道路に飛び出す。そこにいる人たちが何を考えているのかわからない、ということに対するストレスは、ここでだって、非常に大きい。


 在宅で仕事をしている間、サボっているだろうということを婉曲的に何回も言われ、何度もレポートを提出させられ、書いてあることについてその都度問い合わせがきた。私はとてもイライラしていた。環境は決して整えられなかったので、私は同僚に個人的に相談し、彼女との間で具体的な仕事のやり方について「こうしようか、ああしようか」と調整し、自分でクラウドサービスを見つけて仕事に必要なデータをアップロードし、コンビニでコピーをした。3週間ほど前、どうしても必要なことがあって会社に行き、さっと用事を済ませてトイレに入ると、手を洗う石鹸がなかった。私は、ああ、今品切れだからね、と思ったので水で済ませて、持参した除菌ジェルを手にすり込んだ。そして先週、出社すると、まだ石鹸はないし、トイレは汚れていた。掃除をして、洗面台の用具入れを見ると、3月ごろ、私が詰め替えた、半分残った手洗い石鹸の容器があった。私は黙って詰め替えた。サボっている、サボっていると言われ、みんな会社に来ているのだからお前も来い、というようなことを言われ、結局その間、誰も手洗い石鹸を補充しないし、トイレも掃除しない。仕事はしていたんだろうけど、なんだか、ここに全てがあらわれている気がして、それ以来、自転車をこぐ代わりに一応その場にいるが、精神的には、目の前の仕事にだけに集中して、定時になるとすぐに帰る。


 帰宅後、すぐに風呂をわかし、比較的すぐにご飯を食べる。その後の時間はたくさんあるはずなのに、ソファーに埋もれて、携帯を見たり、気がつくと遅い時間になっている。私はいつもとても疲れている。英語もドイツ語も、もう忘れてしまった。


 この職場でのモヤモヤを、言葉にすることができず、ただただ、空っぽの手洗い石鹸の容器ばかりが頭に浮かんだが、思いもかけない方向から具現化の助けがやってきた。5月25日、新型コロナウイルス感染症に関する安倍内閣総理大臣記者会見。


「そうした日本ならではのやり方で、わずか1か月半で、今回の流行をほぼ収束させることができました。正に、日本モデルの力を示したと思います。(…)我が国では、人口当たりの感染者数や死亡者数を、G7、主要先進国の中でも、圧倒的に少なく抑え込むことができています。これまでの私たちの取組は確実に成果を挙げており、世界の期待と注目を集めています。」


 ああ、これだ、と思った。何の環境も整えられなかったのに、「自粛」あるいは「自助努力」と言われて、リモートワークの効率、あるいは、仕事以外の外出などについて、責められて責められて、でも、乗り越えた(のか本当にはわからないけれど)時には、それは「俺のやり方がよかったから」となる。責められるのは私たちの方なのに、上の人は「責任」と口に出すけれども、自分でそれを引き受けることはせず、結局は責め立てることしかしない。「日本モデル」の力は、確かに示された。それは何もしないということ。



 私は「自粛」の期間(それは、感染を広げたくないという自分の選択であったことは確かなのだけれども、「自粛」という言葉は使いたくないな)、いろんな本を読んだけれども、学びもまた、思いがけない方向からやってきた。


 私の学びは、何気なく読み始めた漫画『オリンピア・キュクロス』からやってきた。絵の才能はまるでないけれども運動が得意な壺絵絵師のデメトリウスは、なぜか、様々な時代の日本へのタイムスリップを繰り返し、自死してしまった円谷幸吉などの姿から、スポーツと政治、スポーツと国家(デメトリウスもまた、ポリスのために競技を強いられる一人である)を考えていく。デメトリウスはさらに壺絵職人として成長するためにアテネに移り、そこでプラトンと出会う。プラトンはアテネの荒廃に対し説教をして疎まれているが、タイムスリップしてきた手塚治虫、さらに自ら毒を飲み「処刑」されたソクラテスと夢の中で出会うことで、(彼の場合は運動を通しての)「魂の配慮」を悟っていく……という、どう頑張ってもうまく説明できないはちゃめちゃな話であるのだけれども、私は、ハッとして、「善く生きる」ということを、生活の中で完全に忘れてしまっていたな、と思った。それがどのようなやり方で自分の場合に発出するのかは、ある種、神の領域であるかもしれず、自分で決められるわけではないのかもしれない。私は「善く生きたい」と思った。そこで追加で、バガバッド・ギーターの解説本を読んでみたが、仕事の成果は神への捧げ物なのだとも書いてあった。目の前の成果にとらわれてはいけないのだと。成果にとらわれることで他人と比較し、嫉妬が生まれる。そんなことより、自分の仕事に集中しなさい、と。


 ともかく今は、自転車に乗って、目の前の仕事に集中し、ベストを尽くし、けれど自分に還ってくるような成果を求めることはせずに、そして仕事を終えたら自転車で家に帰る。そして、何かできることがあれば、苦しんでいる人のために何かする。善く生きる――そんなこと、生活に追われて、疲れ切っているうちに、考えたことなんてなかった。善く生きたい。私は、善く生きたい。


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