1周目(イシイシンペイ)


 一ヶ月前、「や」さんの発作的声かけにより立ち上がったこのサイト「沼ZINE」。メンバー各自が勝手にコラムを構える長屋スタイルで、昨日から記事のアップが始まった。せっかく集まったのにそれだけではつまらないということで、リレーのように順番に書き継いでいく枠も作った。テーマについては何のディレクションもない出たとこ勝負だが、まずは自己紹介がわりにそれぞれの「ルーツ」を書くということだけ決まっている。一番バッターは不肖イシイ。昔から、気まずい沈黙を終わらせたいばかりに、学級委員とかすぐ手を挙げてしまうタイプ。

  「ルーツ」といっても色々あるが、今回は「におい」について書きたい。生まれ育ったところのにおい。私にとってそれは腐葉土のにおいだ。特に桜の腐葉土。次いでコナラの雑木林の腐葉土臭。  

 なぜ桜が先に来るかというと、地元の駅に降りてまず鼻に入ってくるのが桜のにおいだからだ。線路脇の土手から実家に至る道にはずっとソメイヨシノが植わっている。雨が降った後などはことさら強く、桜餅を土に混ぜたような独特の香りが漂ってきて、ああ帰ってきたという気がする。 

 幼いときはこのにおいはあまり好きではなかった。子供の私にとって、桜のにおいは桜餅のような風雅なイメージよりも、むしろ毎年大量発生する「桜ケムシ」(モンクロシャチホコの幼虫)の糞の臭いだった。赤いフンをばらまいて群れる黒っぽい毛虫は苦手だったし、ソメイヨシノの植えてある公園や学校の校庭は、生物の影が薄くて魅力が感じられなかった。このにおいが大切な記憶と結びついていることに気づいたのは、就職して土の少ない都会に引っ越してからだ。上に書いたように、私の中で桜のにおいは鉄道による移動とセットで認識されるようになっていて、成長とともに郊外から都心へ吸い出された私の社会的軌道をよく表していると思う。

  小さい頃私をより惹きつけたのは里山の雑木林の土だ。ちょうど実家の裏手が保存林になっており、コナラを主体にした武蔵野の林がよく残っていた。保育園のお散歩、犬の散歩、通学、何千回通り抜けたか分からないが、いつもお馴染みの生き物と、少しの新しい発見が私を歓迎してくれた。  

 乾いた冬が過ぎ、春になって微生物の活動が活発になると、にわかに土の臭いが変わる。目が木々の芽吹きを確認するより早く、いつも鼻が季節の移り変わりをとらえていた。初夏のカブトムシ堀り、秋のドングリ拾い、すべて土の臭いと結びついて記憶されている。 

 クヌギの大木に手を当てて、この一本の木がどれだけ多くの生物とつながっているかを考えていると、学校で多少イヤなことがあっても、大したことではないと思うことができた。枝に巣作りする鳥、樹皮を覆うコケ、ドングリを食べるネズミ、落ち葉を食べる無数の土壌生物、こうした関係の無限さに比べたら、人間社会など世界の一部でしかない。ヒトが全てではない、「人間以外」の領域がこの世の大半を占めている。このことを早いうちに実感できたおかげで、不安定な十代、二十代、どんなに落ち込んでも決定的に追い詰められることがなかったように思う。辛くなったら「メメント・森(森を想え)」である。

  現在、ロサンゼルスという乾燥した都市に住んで思うのは、においがないということだ。においがないと言っては語弊があって、マリファナの煙はそこらじゅうに漂っているし、ホームレスの人の小便のにおいも頻繁に鼻をつく。そこまで殺伐としていないものでは、街路樹のユーカリから生じる揮発性の香りも印象的だ。ただ、日本のような湿った土から立ち上る渾然一体となった生き物のにおいは、郊外の山地の谷筋のようなごく限られた環境に行かないと、嗅ぐことができない。あえて言えば、ビーチの潮の香りがロサンゼルスのにおいということになるだろうか。

  こうして記憶とにおいの結びつきについて書いてみると、どうやらそのにおいをさらに規定しているのは、その土地における水の在り方だという気がしてきた。(小便の臭いも潮の香りも水がもたらしたものだ)故郷の東京は湿っていて、いま住んでいるロサンゼルスは乾いている。この水の在り方に関する違いが、そこに暮らす人の記憶や、そのもととなる物の見方にどんな影響を与えるのか、自分をサンプルにしながら少し考えてみたいと思う。もしかしたらロサンゼルスの人にとってにおいはそんな重要ではなくて、光や風の方が記憶を呼び起こすのかもしれない。が、とにかく私にとって「ルーツ」は水。 

2018年4月

イシイシンペイ


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