インド旅行(1回目)
去年の年始、祖父が亡くなった。
朝起きたら冷たくなっているのを見つけたので、いまどき珍しい大往生で、本人にとっては幸せだろうが、家族にとってはあまりに急なことに心の準備が間に合わず、まだどこか物静かだった祖父の気配を感じながら、懸命に日々を取り戻すために頑張っている。
そんな祖父は、家族の中で、唯一本を読む人だった。祖父のホコリのかぶった書棚は、小さな頃から、ロアルド・ダール『マチルダ』のように家族の中で本を読むことに飢え続けてきた私にとっては格好の遊び場で、物事を知る前からいろんなページをめくっていた。
ところで私は小学生の頃、とにかく映画が好きで、絶対にUCLAに行って映画学を学ぶ、とりわけ、screenplay=脚本、を学ぶのだと思っていた(とは言え、雑誌『スクリーン』をよく買って読んでいたぐらいだったけれど)。
ともかく脚本を書こうと試みた形跡があるが、それは『星の王子様』をどう映画化するかというもので、たったの数行しか書けなかったものの、そこには幼い頃の主人公が、階段の先にある埃っぽい書棚の間に腰を下ろしてアマゾンの本を読んでいる様子が描かれている。
それはまるで、当時の私の再現だった。
さて、そんな祖父の本棚で、とりわけ私が好きだったのは『河童が覗いたインド』である。『河童が覗いた〜』シリーズは、『少年H』で有名な妹尾河童先生が、書き文字・超緻密なイラストで、さまざまな建物(特にミリ単位で測った間取り)や食べ物を書き綴ったもので、『〜覗いた弁当』なんてのもある。
『〜覗いたインド』は、河童先生が旅したインドをこまかーーーくまとめた一冊で、たぶん大して漢字を読めない小学校低学年から、絵が好きでめくっていたのだろう。インドのステンレスの弁当箱から、タージマハル、ちょっとエッチなカーマスートラの彫刻まで、あらゆる風景が詰め込まれていた。
完全にもう祖父が読まなくなったのを確認し、ある日帰りのカバンの中にしのばせて以来、その本は私のものとなった。
大学1年生の春休み、友人Mと私はどこかへ海外旅行へ行こうと決め、予算の都合で行き先はインドとなった。念願の、書物をめぐる旅である。リュックの中には河童本を詰め込んだ。
デリーから、タージマハルのあるアグラまでの夜行列車、小さなネズミが走り回る2段ベッドの車内は、もう数十年も前に書かれた河童本そのままで、居合わせた他の乗客にもそのページを見せたところ「ここだろ、知ってる」というような反応だった。
河童本の中で、とりわけ私が見ておきたかったのはバラナシの火葬場である。バラナシはガンジス川の中でも聖地として知られており、人々が沐浴するすぐその脇で死体が焼かれ、灰が流されていく。河童本ではよくわからなかったが、通りの向こうの方から、花をたくさん乗せた金色のパラファン紙に包まれた遺体が、威声をあげる大勢の男たちによって河岸へと運び込まれ、何らかの儀式の後に、炭で燃やされているようだった。
その日、私たちは河辺に長く腰を下ろしてた気がする。翌日、船から朝日を見ようと、船乗りと約束をしてその場を離れた。
翌朝、とは言っても3時ごろだっただろうか、ホテルにリキシャーを呼んで、オレンジの光がところどころ燈る道を進んでいく。
リキシャーの運転手は、口の中が真っ赤になる噛みタバコを道にペッと吐きながら、これ以上は先に進めないからと、細い通りの前に私たちを下ろした。真っ暗な中を進んでいかねばならないのだ。
見えない闇の中には、犬や人間さえも眠っているのである。身体の芯が引っ張り下げられるような恐怖を感じた。あの道がどこまで長く続いたのかわからない。数十メートルであったかもしれないけれど、何年も歩き続けた感覚さえする。Mは私の手を握って河辺まで連れて行ってくれた。
ようやく船乗りとも落ち合い、そこで、船の上で目にした、完全な暗闇から輪郭がぼんやりと立ち上がり、すべてが太陽に照らされていく様は、全くの体験として、細かい記憶ではなく、感覚として身に刻まれている。これを書いている現在も、別に目に風景がはっきりと浮かぶほど私の記憶力はよいわけではないけれども、あのときに手にした、自分という確信を持ちながら身体の輪郭が溶け出してどこまでも広がっていくような感覚、闇の一部でしかなかった自分がしっかりと身体の重みを取り戻していく感覚は、まったくもって再生することができるのだ。
それはMにとっても同じだったようで、何年か後に、ゼミの京都旅行か何かの後で、「わたし、みんなが綺麗だなって言ってるものに感動できないの。それって、バラナシで、あの圧倒的な風景を見たからからかな」と話していた。
バラナシで私は、オープンしたばかりのショッピングモール(一階はマクドナルド)で、警備員に手を取られ、生まれて初めてエスカレーターに乗るサリー姿の女性を目にした。それから10年近く経った2015年、私は再度、今度は一人でインドを訪れることになるのだが、その頃には噛みタバコさえあまり見かけず、エスカレーターだっていたるところにあり、皆がスマホをいじっていた。まだ河童本の面影はあるだろうけれど、多くが変わってしまっていた。自分勝手な気持ちだけれど、少し寂しい。
初めてのインド旅行で、私は祖父に、ガンジス川の水が密閉されている金属製の壺のようなものをお土産に買っていった。
祖父は、壺を振って水の音を聞き、「なんだこれ」と少し気持ち悪がって、そのうち処分してしまったようだったが、亡くなる少し前も「ゆうきが買ってきたガンジス川の水は……」なんて、定番の笑い話としてくれていた。
その壺を私は何個も買って行った気がする。しかし、2015年に北部で同じものを探したときは、もうそんな溶接したものはほとんど無いと言われたのだ。もはやみんなペットボトルで持って帰るからと。
このように祖父のおかげで私はインドに行き、その後、約10年の時を超えて、必然のように帰って行った。そして今も機会さえあればまたインドへ戻りたい。代わりにインドで買ったピアスをよく身につけている。
ヘナタトゥーをしてもらう19歳の私。ほぼ初めての海外旅行でビビっていたのでウェストポーチを使っている。
でもそれだけじゃない。最初のインド旅が忘れられないのには、別の理由もある。
Mは、旅行のことを親に言っていなかったので、帰国後に携帯電話に溜まった着信に驚いていた。私の親にまで電話が来たようなことを聞いた気がする。「話があるので急いで帰ってくるように」とのことで、Mは数日後に帰省し、それから半年後に彼女は、きちっとお母さんを看取った。
その頃、私たちは機会さえあればよく会っていた。インドの話をした気がする。
なんだかその後のことも含めて、インドで私たちが目にしたこと・感じたことの延長にある気がするのだ。もうそれから10年以上が経つ。
今でもたまに、例えば神保町で信号を待っている最中などに、旅行中にMが「どうしても、親にばっかりお土産を買っちゃうね」と話していたことを、思い出す。
初めてのインド旅行はたった1週間ほどのものだったけれど、1年間の留学生活のとき以上に、あれほど家族にたくさんお土産を買って、こんなことがあったあんなことがあったと話をした旅はなかったように思うのだ。
去年香港に、手違いから2回も旅行することになったとき、私は知らずのうちに祖父のためのお土産を選んでしまい、もうそれが叶わないことに、祖父が亡くなったとき以上の喪失感を感じた。
私は誰かにお土産を買いたい。それがガンジス川の水のように捨てられる運命にあるものであっても、構わない。私は、大事な人を思い浮かべながら、その人のためにこれだと思うものを(それが思い違いであっても)買って、持って帰りたいのだ。
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