無題(や)

 相手が見ないことを望む。 

(心当たりの人はここで戻ってください。) 



 先日私は、とある人と二人で飲みに行った。 

(最近私と二人で飲みに行った人は、ここで読むのをやめてください。)





……





 とある人とは、地元に住む同級生である。とはいえ、私は現在実家がある場所には6年間しか住んでおらず、しかも辛い思いをしたことも多かったので、あまり記憶も愛着もない。ただ親(それも片方)がいるのでたまに帰る(と言っても隣県の祖母のところに行くのに寄る)ぐらいである。しかしその場所を嫌っているわけでもないし、原発のことがあってからは、その場所が抱えている意味をどうしても考えなければならない位置に自分がいることに気付いた。というのも、その場所出身で、東京で暮らしている、しかも出版や演劇に関係する人は、驚くほどに少ないからだ。外から意味付けをされる場合も多い。

  そんなスタンスなので友人も少ないのだが、その小さな友人ネットワークとは別のところで連絡がきたので飲みに行った。彼についてあまりに知らない上に、彼は見目が美しいので、最初、私は記号と飲んでいるような気になった。それは本人にすごく失礼なことだろうけれど、その人の人格やらライフヒストリーやら感受性に入り込む前に、見目が美しい人と飲んでいるのだから、それが嬉しくて、彼の見た目の美しさに意識が向いてしまったのである。あー、ごめん。

 しかし話してみると、彼が、前後の文脈をともなって、(概念として)温もりのある&触ることができる人格として立ち上がってきた。それによると、彼は、驚くほどに真面目で、誠実で、ものすごく努力をしている人で、かつ、よく道に迷い&気まぐれでスケジュールを打ち壊す私とは正反対で、毎日を自分で決めた習慣にしたがって生きている人だった。素直にすごいなと思った。

 でもそれは憧れとか、自分もそうなりたいとか、その習慣のひだに触れていたい、とかではなく、「パンダの5本の指は揃って生えていて、手のひらの突起が親指の役割を果たす」という情報に対して「へえ〜、すごい」と思うのと同じような感覚である。

 ……と言ったところで、この例が適切なのかはわからない。というのも、私は他の人よりも、パンダの親指に対して”感激”しているからなのだ。彼に対しても、心の底から「へー!すごい!そしてそんなに早く出社して、毎日働いているんだ。熱心だなー!」と思った。偉いなーと思った。こんなにイケメンで、仕事でももっと怠惰なことをしたって許されるはずなのに、自分で自分を高めているーー。

 ただ、それで「キャー、カッコいい!好きになっちゃう〜!」と言えないほどまでに、私は固まり閉じつつある自分の感性を抱え、のんびりと(しかし焦りながら)日々を生きている。全く違う人生を生きてしまっているので、動物園の檻越しに(というか檻の中にいるのは私なのだろうけれど)それを眺めているだけなのだ。たとえ私がメロメロになったとしても彼は困っただろう。

 というのも。

 そもそも、このちょっと不思議なサシ飲みも、時間が経つほどに、というか、開始1分ほどで、色恋沙汰が目的なものではなく、MenschとMenschの、中性的な(Menschは男性名詞だけど)飲みを目的にした飲みだとハッキリしていたし、まあ、それでいいじゃないか。楽しかった。 


(こんなことを書いているのには理由があって、私はあまりにモテないので、海馬が異常に発達しており(?)、飲みに誘われた時点で、「もし万万万万万万万万万万万万万万が一」の事態を、一瞬にして、走馬灯のように想像で体験し、それによると、もし彼と一緒になることがあったとしても(仮定法)、そこに浮かぶのは高村智恵子のことばかりであった。)  


 彼は流行りのJーPOPの話をした。私は小学校6年生の時に、自分はJーPOPを聴くことはないだろうなと思い、近頃はアラブ音楽のライブに出かけたりする。翻訳の仕事をしている最中は、どの言語であっても言葉が邪魔をするので(ドイツ語を習得するほどに英語を完全に忘却してしまったぐらい、私は言語に対して繊細である。)、作業の間はJAZZかクラシックしか聞けなくなってしまった。

 後日、彼の薦めてくれた曲を聴いてみたが、曲の冒頭で「浮いた前髪」というワードが登場し、私は海外の友人から「前髪を作るなんて正気の沙汰じゃない!」と必死に止められてから伸ばし続けて、昨今のショートヘアブームにも負けずに、キャサリン妃の雰囲気に憧れ、パサパサとしたロングヘアーを携えているので、途中で聴くのをやめ、代わりにビートルズを聴いた。

 私がその曲に感動できるようだったらよかったのに。と少し思う。


 今思い出したから書くけれど、先日、出版社のえらい人から、「初対面の時から〈この人はえらく冷酷な目つきをしている〉と思った」と言われたんだった。そして私はそれを気づかれないようにしていると。それを聞いた別のえらい人は、自分はそうは思わないけれど、あなたは常にたくさんのことを次から次に考えすぎるきらいがある。恋に落ちる瞬間というのは、言葉がなくなるその瞬間だけれど、あなたはそれを知らないだろう、と言った。  


 さて、私たちはたくさんビールを飲んで、酔いが回って、そのうちに彼が、私たちは互いに前に向かって話している、と言って、この人は何て核心をつくんだろうかと恐ろしくなった。そのうち私が、お店の近くに素敵な公園があることを思い出したので、私たちはお店を出て、散歩をして、ブランコを漕いで吐きそうになりかけたり、沼のカモに話しかけたりした。

 

 その時のことを思い出すとーー  


 私たちは、その瞬間を分け合うこともできるし、分け合う才能も有しているのに(少なくとも私にはそう感じられた)、結局はどこにも行き着かないというのがはっきりした。というのも、別に互いに意味を有していないのだろう。私は意味について話すが、あなたは言葉の遣い方について話す。私たちが一番よく語れるのは、沈黙している時なのに。沈黙の中には、きっと過去も未来もない。しかし、私たちは、饒舌に、互いに意味の通じないことを口から常に吐き出しているので、沈黙の入り込む隙がないのだ。しかし、私たちは話さずにはいられない。 

 その場所には、何の意味もなくてよいはずなのに、私はそこの場所に以前誰と来たかを話した。それで、その場所には、余計な情報が付随した。でも、そんなことは全体から見たら些細なことだ。それでも、私たちがその場所にいたことは確かだったけれど、そのことの意味は多少変わっただろう。別にそれでいいのだけれど。 

 正直なところ、私はそれを悲しく思ったけれど、そう思う必要はない。私は30歳で自分の閉じつつある感性を有しているし、まだまだニューヨークに住んだりしたいと毎日考えているし、そんな自分の向こう見ずさを大事にして、根無し草の辛さに苦しんでも柔らかさを保ち続けたいと思っている。


 その日は雨が降っていて、公園に着いた時にはもう上がっていたのだけれど、水溜りの上の鉄棒で、私は前回りをした。ロングスカートの裾がびっしょり濡れた。


 一方的な視点から自分勝手に物事を解釈して(実際のところは咀嚼すらしきれていないのに)失礼だと思うけれど、私は書かずにはいられなかった。私は、カントが「嘘」を許容しない例として、自分の家に逃げ込んだ人がいたとして、それを探しにきた人がいれば、逃げ込んできた人の生死に関わったとしても、正直にその人が家にいることを答えなければいけない、と書いているのを知って、若き日には憤りをおぼえたのに、自分は文章に対して、極めてカントと同じような捉え方をしてしまっているのだ。


If you said it it was said. If you believed it you must say it. If you believed, you believed.
(言ったのであれば、それは口に出されたこと。そう信じたのであれば口に出さなければいけない。もしそう信じたのであれば、君はそう信じたということなのだ。)
マラマッド『天使レヴィン』


 後日、彼は、私の友人がオープンした(と、その日話をした)書店に行ったらしく、友人から彼が購入した本と一緒に写っている写真が送られてきた。その中に『ユリシーズ』を見つけて、彼ともっといろいろ話せたのではないか、むしろ話さないことができたのではないか、という気持ちが一瞬小さな波としてやってきた。そんなこんなで、このところは、少しぼうっとしてしまったけれど、過ごすべき日々は圧倒されるほどのボリュームで控えている。

 ということで、今日も私は翻訳の仕事に打ち込む。あまりに弱気になったので、指導教官に泣き言をメールしたところ、お菓子みたいな甘やかしの言葉と一緒に、「翻訳は本当に大変な仕事です。でも、あなたには、とても才能があると思います。なにより経験が大事ですから、持続していってください。」と言葉をもらった。持続、持続、持続……(言葉を噛み締めている。)  

 いま自分のやるべきことに、打ち込む。

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