チェコ編・1回目(兼桝綾)
[初日]
Booking.comで予約した宿泊先のアパートの、最寄駅についたころには現地時間の21時をまわっており、空港から私を送ってくれた身体の大きなタクシー運転手は、多分このへん、と言って颯爽と去ってしまった。トラムの停留所の前で私は心細く、あたりは暗く、その時になってようやく海外ワイファイの電源を入れたが、繋がるには5分ほどかかりますという表示が出て、しかたなく待ちぼうけた。先についているはずの凧ちゃんに連絡をとると、凧ちゃんは今行くからと言い、丸1日ぶりの母国語での会話に私がほっとしているうちに、凧ちゃんが背後の階段から降りてきて、私は既に目的地の眼の前にいたことが分かった。「お疲れのところ、申し訳ないんですが」と凧ちゃんは言う、「一度外に出ると、鍵がなかなかあかないんだよね…」。部屋にたどり着くには三枚のオートロック扉の鍵を開けねばならず、その鍵が大分厄介だという。スーツケースに座って呆然としている私の前で凧ちゃんが、部屋の貸主の送ってきた「扉の開き方」動画を見ながらがちゃがちゃやるが、貸主の「ワーン、ツー、オープン」という言葉が何度再生されても一向に扉はオープンせず、先が思いやられた。これから外に出るたびに、この鍵に苦しめられるのか。
私は疲れきっていた。頭から湯気の立ち上るような過集中で仕事を押さえ込み、どうにかチェコへ飛んだのだ。前日までほとんど準備をしていなかったので、充電器、スーツケースベルト、コンタクトレンズの洗浄液など、クリティカルな物ばかり忘れた。しかしそれらは全て成田空港で調達できた。私は出発前に空港内のタリーズコーヒーでコーヒーとポールパークドックオリジナルを注文し、おもむろに「空港・ついたら・やること」で検索した。アジア圏の外への渡航は実に10年ぶりで、マジで・何にも・覚えていなかった。チェコ行きは、大学時代の友人Aちゃんの結婚パーティーに参加することが目的だった。Aちゃんは、ブルナ出身の心優しい男性と式を挙げる。
フライトは実に15時間におよんだ。成田→ウィーン間の機内で、映画「勝手にふるえてろ」を2回観た。こじらせ女子が何だかんだで、黒猫チェルシー渡辺大地とうまくいく。私は渡辺大地が大好きだ。色々忘れたわりにショールも機内用枕もアイマスクも持っていたので、狭い空間を快適に演出することに成功した。ウィーンで乗り継ぎ待ちをする。水を買いたいが、私の財布の中身はチェココルナばかりで、2ユーロのミネラルウォーターを買うことも出来ない。旅のこの時点でまだ私には、店員に「カードつかえますか?」と尋ねる勇気がない。喉をからからにして乗り継ぎ便を待つ。乗り継ぎの飛行機はやけに小さくやや不安になる。座席をめぐって隣の席の男性ともめるが、おかげで英語を発する勢いがつく。そしてプラハにつき、「ミス・カネマス」と書いたプラカードをもって待ち構えていた熊のような男性の運転する送迎タクシー(ネットで事前予約しておいた)に乗って、ようやくアパートについて、開かない鍵という仕打ちであった。凧ちゃんが悪戦苦闘し、ようやく鍵を開けてくれるが、この鍵はその後、一週間に渡り我々を苦しめることになる。
[2日目・昼]
海ちゃんと、海ちゃんの父親とターミナル駅で待ち合わせる。海ちゃん・私・凧ちゃんは、大学のサークルでの仲間だった。海ちゃんは歳上だが私の同期、ひとつ下の代が凧ちゃんであるが、まあ、あまり歳上も歳下もないサークルだった。海ちゃんは私達に出会うなり歓声をあげた、自分の父親ともう1週間も旅行していたので「女友達」的な関係が恋しくなっていたようだ。海ちゃんは日本在住だが、折角のバカンスということで父親と共に、フランスを経由してチェコに来た。凧ちゃんはカナダ在住である。フランス、カナダ、日本から、現地集合が成功したわけだ。我々は仲良く特急の切符を買って、大きな列車(エレファント、と書いてあった)に乗る。遠足らしく2階席を選び、一行はAちゃんの家の最寄駅へ。私の生まれた町の駅と同じくらい、小さな駅である。Aちゃんと、夫のOさんが出迎えてくれた。駅近くの、日差しの明るいレストランのテラス席で昼食をとる。何を頼めば良いのか分からずにいたが、海ちゃんと海ちゃんの父親は、カツレツがいいとか、タタラークは無いのかとか、すっかり詳しくなっている様子。タタラークとはチェコのユッケのようなもので、海ちゃんはすっかり気に入ってしまったらしい。残念ながらこのレストランには無かった。チェコビールを頼む。チェコビールのジョッキは、あつぼったく太っており可愛い。このグラスを、お土産に買ったんだよ、と海ちゃんの父親が嬉しそうに言った。運ばれてきた料理の皿には、肉や揚げ物の横に、小ぶりのじゃがいもを茹でたものがたくさんのっている。じゃがいもは甘くて美味しかった。食事がすむと、我々は湖まで歩いた。緑色の湖は、雨がふればもっと綺麗に澄むとAちゃんが教えてくれる。水着姿で水浴を楽しんでいる人が多くいる。凧ちゃんと海ちゃんは遠くまで泳いでいくが、私は深さにおののいてそう遠くまではいけない。海ちゃんはそのうちに、知らない集団のビーチボール遊びに混ざりにいってしまった。私はぷかぷかと浮いていた。私には、チェコまで来るので精一杯、と思いながら、それにしてもしかし、あっというまに生活を離れ、見たこともない大きな湖に浮かんでいることが、今のところ信じられないくらいであった。帰りの電車の窓からは、草原を、野うさぎの何匹かがはねているのが見えた。
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