雨を降らせる(野田まりえ)
子どもがいると自分の趣味が制限されるというが、空想を趣味としている場合にも当てはまるとは思っていなかった。あまり恥ずかしいので大々的に言ったことはないが、私は結構な時間を非常にどうでもいい空想に費やしている。なかでも、「高校生に戻れたら何をしよう」とか「小学生からやり直せたら何になろう」という人生をやり直す系の空想がとても好きだ。私の意識はそのままで過去に戻れるという設定になっているので、嫌なことや失敗は回避して楽しく快適に生きていけるのだ。人生2周目というやつだ。
空想の中の私は心に余裕があり、誰にでも優しく、上手にコミュニケーションが取れる。実際には自分の行ける範囲の大学にそれなりに頑張って入ったが、空想の中ではもっといい大学に行ったり別の学部を選んだりして素晴らしいキャリアを手にしている。または大学に行かずに小説家になったり女優になったりするのだ。自分が持っていないもの、しなかった経験を空想のなかで拾い集めていく作業は私にとって癒しだった。
子どもが出来てから、こういった空想から癒しを得ることが出来なくなってしまった。もし過去に戻れたとしても人生を大きく変えることはできないと気付いてしまい、楽しかった空想は非常に苦しいものになった。実際に私が過去に戻ることは不可能なのだから、空想の中で女優になろうが何をしようが、息子と娘を産んで仲良く楽しく暮らす設定にすればいいのだが、私にはそれが出来ない。いまの人生と全く同じタイミングで授からなければ、同じ子どもが産まれてこない設定になっているのだ。何故かわからないが、この設定がどうしても変えられない。そして息子と娘がいない人生を私は選ばない。
私が過去に戻れたとしたら、いまと全く同じ人生を歩み、何一つ間違わずに息子と娘を産むことがミッションとなる。空想の中の私は、「早く子どもたちに会いたい」と思いながら小学校に通い、子どもたちを思って泣きながら眠る。なぜ意味もなくこんな悲しい空想を繰り広げているのか謎だ。全然楽しくない。
過去について変えられることは、母に優しくしたり株を買ったりするくらいで、進路変更はしない。不満もたくさんある結婚生活だが、また夫と結婚する。そして、絶対にまた息子と娘を産む。息子と娘の出産予定日を覚えているので、いつ授かったのか逆算することが可能だ。適当なウェブサイトで逆算して、何としてでも授かる。
そこで一つの疑問が生じる。過去に流産した子どもをもう一度妊娠すべきかどうかである。息子を授かる6カ月前に私は流産を経験している。それは、やはりもう一度経験しなければいけないのだろうか。たった3週間お腹にいた子どもの出産予定日を、6年たった今でも私は覚えている。授かった日を逆算できる。
ここで第二の疑問が生じる。もし流産できなかった場合にどうなるかだ。流産しなければ息子を予定通りに妊娠できないからである。もし万が一流産が起きなかった場合、私はその子を受け入れて息子を諦めなくてはならないのだ。それはあまりにも辛い。しかし最初の妊娠をしなければ、なぜか息子を妊娠できないような気がする。とても強く、そんな気がするのだ。
流産や死産の後に産まれてくる赤ちゃんをレインボーベビーと呼ぶ。雨の後の虹のように、悲しみを癒すようにやってくる赤ちゃん。私の息子はレインボーベビーだ。悲しみが癒えたかはわからない。ただ、レインボーベビーという言葉には、流産にも意味はあったという慰めが込められているように感じる。雨が降らなければ虹は出ない。雨は、降らなければならない。
頭の中で、当時住んでいた部屋に戻る。何度も何度も私はあの部屋に戻る。流産する運命がわかっている子どもを、そして確実に流産しなければいけない子どもを私は妊娠する。流産することがわかっていても、そして流産を望みながら、私はまた葉酸サプリを飲み、栄養のある食事を作り、お腹を温めながら出勤する。お別れの時が近づいているのを知りながら、何も知らずにお腹に話しかける夫を見守る。腹痛がやってくる。少しずつ強く、そして感覚が短くなっていく。まるで陣痛のようだ。痛みで動けなくなった私を見て、夫が救急車を呼ぶ。
救急車の中で、何かがでてくる。病院のベッドでステンレスのトレーに取り出された何かを指し、「これどうされますか?」と若い当直医が聞く。流産を繰り返す不育症の場合、出てきた胚を検査に回すこともあるようだ。だから医師は「どうされますか?」などと聞くのだ。当時はそれを知らなかった。黙っている私に、「こちらで処理しておきますね」と言って彼女はどこかに消えてしまった。人生2週目の私は、「検査は結構です」と言う。そして一度だけ触らせてもらう。
私はずっと、この子にお礼が言いたかったのだ。楽しかった日々をありがとう。妊娠を、陣痛を経験させてくれてありがとう。何年たっても忘れることのできない悲しみをありがとう。さようなら。
現実逃避のためだった空想が、いつしか実際に起きたことを何度も何度も辿る作業になっている。まるで中毒のように私は何度も悲しい記憶をたどる。人生をやり直せたら悲しい出来事はすべて回避できると思っていたが、それはどうやら間違いだったらしい。どんなに悲しくても回避できない、したくない出来事も存在するのだ。でも人生を自由にやり直したいと思うより、私が生きてきた人生を選びたいと思えることは幸せなのかもしれない。何度人生をやり直せたとしても、私は何度も雨を降らせる。これが私の人生で、とても短かったけれど、これがあの子の人生だったから。
野田まりえ
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