伊豆大島で得た確信の温もりをいつか思い出したい(や)

 更新が遅れてしまったが、2019年、私は貯金を切り崩しつつ毎月何かしらどこかへ旅行しているので(今週末も友人たちと車で暖かい場所に出かける予定である)、原点回帰で、今回はきちんと旅について更新しようと思う。

 今年に入ってから、私はすでに伊豆大島へ二度も行った。「お兄ちゃん」と呼ぶ、同業の、とはいえ編集の世界ではトップクラスの実力者の方が、ご夫婦でもう何十回も大島を訪れるほどにそこに「馴染んで」いて、お二人がお友達と毎年出場するというミニマラソン大会に誘っていただいたことをきっかけに、去年と今年の2月、そして今年はさらに、海外からお友達が来たので彼女が来たタイミングに合わせて3月に、と、2ヶ月連続で海を渡ったというわけだ。

 私は「えっちらおっちら」数年前から走り始め、それから長らく歩くのと同じ速さで、しかも最長で2キロぐらいしか走れなかったのが、このマラソン大会をきっかけに5キロほどは難なく走れるようになった。今は10キロを休まずに走ることもできる(とはいえ遅い)。

 ご夫婦のお友達も、今回海外から来た友達も、颯爽とスポーツウェアを着こなし、アクティブで、前向きで、話題が豊富で、一緒にいてとても楽しい。私は自分はスポーツ音痴で根暗だ……と卑屈に思っていたけれど、伊豆大島でしたように、何時間もウォーキングをしたり、太陽を浴び、あるいは豪風に吹かれることが、こんなに楽しいことだとは知らず、今度はいつかほぼフルマラソンに近い距離の島の外周を自転車で周遊したいと考えている。


 2月に行ったとき、島で、お兄ちゃんたちと私は泥酔していて、前にも同じことで注意されたのに、私は酔ったお兄ちゃんの写真を携帯で複数人に送ったらしかった。翌朝「ひっ!」と息をのんで、送り先の一つの友人に「今度こそ嫌われる」とメッセージをしたけれど、彼女は「大丈夫だよ」と言う。というのも、彼女は、お兄ちゃんご夫婦に私は愛されているのでそんなこと問題じゃないよ、と言うので、私はにわかに信じられずに怯えていた。

 それまで私は、ほかの人には、自分がした行動によって評価されるのであって、それによって嫌われたり好かれたりするのが当然だと思っていた。(あるいは「○○ちゃんは可愛いから」というような外見も関係するかもしれないけれど、私には関係のないことだと思う。) なので、大事にされていることの方が前提で、その演繹法で、だから許される、なんてことがありえるのか全く信じられずにビクビクしていたのである。

 改めて「お兄ちゃん」に謝ると、ああ、別にいいよ、というような反応だった。

 もちろん写真を送ったことに対しては反省しているし、人が嫌がるようなことをしてしまったことには猛省している(けど繰り返してしまいそうなので性格を変えねば)。
 それでも、私は、もしかしたら私はずっと求めてきたものを手にしているのかもしれない、とさえ思えて、身勝手ながらも、心の中に温かいものを感じていた。


 こんなことを言っては重すぎる(ので我ながら書いていて引いているのも確かだ)けれど(それでも私は記したい)、私は、きっとこういう関係性ーーつまり、自分のした細かいことに対応する結果や、その引き換えや報酬ではなく、自分であることで大事にされるような場所を求めていた気がする。友人などの人間関係の間でも、私はそれを求めながらも「どこで間違えたのか」「これからいつ間違えてしまうのか」「好かれるには何をしたらいいのか」と絶えず緊張し、原因を探っては自分を責め、ほかの人をなじり、環境を責め、たくさんの涙をこぼしてきた。

 そんな関係性、ウェルベックが『服従』の中で、作家のユイスマンスがついに得ることのできなかったと書いている場所(ひとはこれを家族と呼ぶのかもしれない)を、「お兄ちゃんご夫婦」が、自然に、得体の知れない私に対して今この瞬間にガッと与えてくださっていることは、身にあり余る僥倖で、素直に甘えたいと思うし、かといってお二人に依存するのも違って(依存しつつあるけれど!)、こういう関係性が、この世界に確かに存在し、自分の身にもそれが可能だという温もりを持った確信がいまこの瞬間で得られていることに、お二人へは底知れない感謝の気持ちを抱いている。


 私は希望を抱きながら、外の世界へもたくさんの可能性を見出す、そしてそんな可能性を抱いた世の中は、(『星の王子様』よろしく)もっとキラキラと輝いて見えるんだと思う。


 私はずっと世の中が好きになれそうだ。ーーそれが伊豆大島で気づいたこと。
虹を見た!


※ラブピースクラブさんで連載が始まりました!月一回の更新予定です。ご覧ください!

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