人に戻る(野田まりえ)



  食べてばかりいる。
  子育て疲れを理由に、授乳中であることを言い訳に、暇さえあれば食べている。
 
  授乳が軌道に乗るまで、100日かかるといわれている。本当に100日かかった。赤子は乳を吸う能力を備えて生れてくると信じていたが、どうやらそうではないらしい。
  以前、小鳥が巣作りをする動画を見ていた時、巣作りが得意なやつと、集めてきた藁や泥をぽろぽろ落とし、いつまでたっても巣を完成させられない不器用なやつがいて、同じ種類の鳥なのに、こんなに個体差があるのかと驚いたことがある。それが本能的な営みでも、それぞれに備わっている能力に差があるのは、鳥でも人でも同じなのだ。
 
  哺乳類のくせに上手に哺乳ができなかった我が子は、生後3日くらいは乳が吸えず、体重が減ったり、黄疸が出て特別なベッドに寝かされたりして、親になったばかりの私を動揺させた。その後、乳を上手に吸えるようになる哺乳瓶とやらで練習をして、やっと本物の乳を吸うことに成功した。この哺乳瓶が無い時代に出産しなくて本当に良かった。私の母乳育児は、哺乳瓶の助けを借りてスタートした。
 
  子どもがようやく乳を吸うようになったかと思うと、次は私のおっぱいが詰まった。産後しばらくは、母乳は受注生産ではないので、とにかくどんどん作る。子どもがどんどん吸わなければ、在庫の母乳によっておっぱいが岩のように固くなってしまい、激痛により動くことが困難になるのだ。
  これには本当に困った。母乳の作りすぎを防ぐために、あまり食べすぎないように気を付けると、今度はあっという間にやせ細ってしまった。自分の体重維持と母乳生産のために必要な栄養とカロリーを、ちょうど必要なだけ摂取するなど無理な話で、何を食べても、おっぱいが固くなるか、自分が痩せるかで、なかなか落ち着かなかった。

  それが、100日を超えたころから楽になった。生産量に消費のほうが追いついたのか、子どもの消費する分だけを上手に生産できるようになったのか、あるいはその両方かわからないが、健康的な体重に戻り、おっぱいが張って激痛に苦しむこともなくなった。子どもも、ぷくぷくと、いや、すくすくと成長した。
 
  それからも、しばらくは食べるものに気を付けていたが、最近はその反動なのか、とにかく食べてばかりいる。
  暇さえあれば食べている、と書いたが、要は子どもが寝ている間ということだ。育児をしていると自分の時間がなくなる、とよく言うが、本当だった。子どもがお昼寝にはいると、私はまず真っ先にトイレに行く。そして水を飲む。それから、なにか食べるのだ。
 


  逆に言うと、子どもと二人きりのときは、相手が寝なければ、トイレにも行かず、ずっと飲まず食わずでいるということだ。もっと効率の良い人や育児がうまい人はそんなことないのかもしれないが、私は子どもに泣かれたりぐずられたりするのがとても嫌なので、とにかくずっとそばにいるし、子どもと遊び続けている。当然のことながら、子どもが昼寝しない限り、家事はしていない。
 
  そんな生活を続けているうちに、子どもが寝ている時間イコール食べる時間、という感じになってしまった。お腹が空いていても空いていなくても関係なく、子どもが寝たら、なにか食べるのだ。次にいつ寝るかわからない以上、そうするしかない。問題は、「子どもが寝ているのならば、食べなければもったいない」と感じるようになってしまったことだ。
 
  外出中に、とてもお腹が空いているタイミングで子どもが寝たことがあった。なんて良い子なんだ、と思いながらカフェに入り、パスタランチセットを注文した。セットには、パスタ、サラダ、ケーキ、ドリンクが含まれており、それらをすべて堪能した。しかし、食べ終わってしばらくしても、子どもは起きる気配がない。私はそのときすでに満腹だったにも関わらず、さらにケーキセットを注文し、ケーキと食べコーヒーを飲んだ。最近、こういう食べ方ばかりしている。
 

  子どもが起きないからと、レストランを二件はしごしたこともあった。友人と一緒に食事をして別れた後、カフェに入ってパンケーキを食べたり、パン屋で大量にパンを買いこんで、子どもが寝たタイミングで食べ始め、起きるまで食べ続けたりしたこともある。
 
  ちょっと異常じゃないかと思ってママ友に相談すると、「いいんだよ。授乳中はね、人じゃないんだから。普通の人と同じじゃなくていいんだよ。」と謎の許しをいただいた。彼女がどういう意味でそういったのか訊きたかったけれど、子どもが高速ハイハイでどこかへ行こうとしたので会話は中断された。
 


  私は、人じゃないのだろうか。
  そう言われると、急に自信がなくなる。
  授乳中の私に投げかけられたあだ名の一部を紹介すると、おっぱい、ミルクタンク、ドリンクバー等々、まったく人格を無視した物ばかりである。酷いとは思うが、私の身体を使って生活しているやつがいる時点で、出産を終えた後も、私一人の身体ではない。
私の謎の食欲が、本当に私のものなのかわからない。授乳のたびにホルモンが増えたり減ったりするせいで、自分の機嫌すらも、本当に私のものかわからない。確かにそう考えると、いままでの私ではない。一人の人として生きている実感がない。
 
  授乳がやっと軌道に乗ったと思ったところで、私の子どもは三回食に入った。これは、離乳食を三回食べるようになったということで、要は一日三食食べるということだ。そうなると、栄養の面では、授乳は必要なくなる。おっぱいはただのおやつになる。
  私の子は、もうすぐ卒乳する。そして私は、私一人の「人」に戻る。

野田まりえ

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