Seeへの散歩(や)

 その日、私は10月の陽気の中で落ち葉を踏みしめながら歩いていた。木々の間をさまよう。手に握った携帯電話の画面には、薄い緑の一帯に「こちらに進め」とオレンジ色の道が表示されていたが、事実は遭難しているようなものだ。人が歩いた形跡のない、獣道でもないところを、何となく南へ、延々と進む。耳が痛くなるほどの静寂の中で、たまに、かすかな風に葉たちがやさしく触れ合う音がした。

 大学にいた頃、ゼミの先生がサイードを引きながら、ひとが恐怖を感じたとき、不安なとき、その人は歌を口ずさむのだと教えてくれた。私はその気持ちをとてもよく理解できる。中学生の頃、少しでも夕暮れの時間を逃すと真っ暗な河川敷を30分かけて帰らなければならなかった。この真っ暗な道を、私はひとりで、あるいは近くに住む友達といっしょに歌をうたいながら帰った。しかしこの、寂しいときに自らを奮い立たせる(というほど大袈裟でないけれども、歌がなければ進めないような道を進むに十分なほどの力を得る)ために歌をうたう、という感覚は、わからない人もいるらしい。先生がその話をしてくれたとき、ゼミでは首を傾げていた人もいた。しかし私は、自分の、なぜかわからないけれども歌をうたっていた中学生の頃を思い起こして、私は不安だったんだ、怖かったんだ、と精神分析のように腑に落ちたのである。

 さて、10月のその日も、私は歌をうたってスマホが指し示す方向へと、ひたすら向かった。木漏れ日と、隙間から差し込む強い秋の光と、色づいた葉っぱ、かすかに頬に感じる風……すべてが美しく、世界中のどことも違う、変化ある道が、けれどいっぽうでは延々と繰り返しのように数十分進んでも同じように広がっていた。ようやく向こうから人の話す声がして、足音がし、先に犬がこちらに向かってくる姿が見えて、私はそのときには小声になっていた歌をやめた。


 このとき、私はベルリンにいた。9月30日から4週間の語学教室に参加するためである。準備という準備もできていなかった8月、先輩の教え子がベルリンで亡くなった。先輩に託された手紙をその子が亡くなった場所に持っていくために、授業のない日曜日の朝、グーグルマップを頼りに家を出たのである。それによると、家から駅までは20分弱、それから30分も歩けば着くはずのところだった。森の奥の方なので、むしろひとりでタクシーを拾う方がおそろしく思った。目的地がどんなところなのか、わからない。ひとはいるんだろうか。見た目外国人の私がひとりで立ち寄って大丈夫な場所だろうか。その頃、ドイツのある都市では特定の民族を狙ったテロ的な殺人事件が起きていた。最寄駅へと向かう電車の中で、私が森の中でレイプされて殺されるようなことがあっても、誰か気づくのだろうかという考えが浮かんだ。わからないけれども、なんとか、行くしかない。凍える日々が続いていたその頃、その日は久しぶりの、驚くほどの陽気で、駅を降りると、西の方に位置するその地域は、大きな邸宅が多く、整えられた庭の芝生が輝いていた。それを見ていて、大丈夫だと思えたのである。私は上着を脱いで、ともかくそちらの方へと向かった。邸宅が並ぶ道が行き止まりになり、駐車場のようなスペースにバスケットゴールが置いてあった(駅からそこまで10分ほど歩いたのに、不思議なことに私は誰ともすれ違わなかった)。しかしグーグルマップは、そこに道があるという。一通り周りをうろついてから私は答えを見つけた。バスケットゴールの後ろにある藪の中を進んでいくしかないのだ。藪を少し進むと木立の方へ出た。そして、冒頭のように、道なき中をだいたいの方向へと進んでいくことになったのだ。犬とすれ違った頃には獣道があり、さらに進むと、杭などで整備された道へとつながった。いくつも、標識のない分かれ道を、携帯がよいと示す方向へ曲がった。どうやら目的地の近くは、自然を愛する人たちが週末に犬を連れ、あるいは友人と散歩に訪れる場所のようだ。すれ違う人の数は、そこへ近づくにつれ増えていった。やがて視界が開けると、そこには、湖というには小さすぎ、沼と呼ぶには大きすぎる場所があった(便宜的にそれを「池」と呼びたいけれど、ドイツ語でSeeと言うとき、冠詞によっては海さえも指してしまうのだ)。

 ここだ。ここが目的地だ。ここで数ヶ月前、19歳の男の子が亡くなった。私は会ったことがなかったけれど、先輩にとっては親しい教え子だ。池のほとりの端っこで立ち尽くしていると、後ろから来た犬がずずずっと水の中へと入り、しかし数メートル進んでも胴が浸からなかった。どうして優秀な彼がここで亡くなったのだろうかと、私はしばらく立ったままで、木々によって数カ所に分かれた岸辺のひとつで、周りから人がいなくなる瞬間を待っていた。

 日本を出る前日に託された、(環境にうるさいドイツ人が見つけても言い訳できるように、と)水に溶ける便箋に書かれ折り込まれた先輩からのお手紙。読もうと思えば読むこともできたけれど、やはり読まずにおいた。それをカバンから取り出して、岸辺に流す。しかし、あまりに穏やかなので、手紙はすーーっと奥の方に進むこともなく、私の足元の水際から動かずに少しずつ溶けていく。

 先輩から最初にこのことについて聞いたとき、そこがどんな場所なのかと画像検索をすると、FKK(エフカーカー)と呼ばれるヌーディストたちの写真がいくつか出てきた。どうやら彼らの聖地であるらしい。それも私が行きの電車の中で不安に駆られた理由の一つであるけれども、手紙が溶けきるまでを眺めてから、いちばん大きな岸辺へと行くと、視界の隅には、シートを敷いてピクニックをする多くの家族連れに紛れて、全裸で日光浴をする男性が見えた。私の前を、歩き始めたほどの幼児がヨタヨタと横切り、そのままひとりで池に足を浸していた。すべてが平和で、スーラの「グランド・ジャット島の日曜日の午後」みたいな光景だった。わたしは浜辺の丸太のはじのほうに腰掛けた。そのうち、散歩に来たと思われる年配の3人組が「小さいときにここによく来た」というような会話を隣で始めたので、私は「ここで日本人が亡くなったこと、知ってますか?」と問いたかったけれど黙っていた。というのも、その場所の美しさに圧倒されていたからだ。光があふれ、家族連れがたくさんいて、こんなこと思ってはいけないのかもしれないけれど、彼が亡くなったのが暗くてジメジメした場所じゃなくてよかった、と思った。目の前では、一糸まとわぬ金色の巻髪の幼児がひとりで水際の方へと走っていった。


 帰国後、現地のことを報告しているうちに、先輩がちょうど彼が亡くなる前に旅行していた先で、乗っていた電車が野生の鹿を轢き殺してしまったのだと話してくれた。車内にはバリバリバリと骨のくだける音がしたそうだ。そのとき(他のこともあったので)、この頃は何かがおかしい、と感じたのだという。しかし、そんなことが起こるとは思いもよらなかったのだと。私もその感覚については身に覚えがあるけれど、具体的にいつ、何に関して感じたのかを思い出せずにいた。

(や)

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