ユリア・コルビック 「ベストを尽くして」
(はじめに:訳者より)
注意:長くなったので、時間のない人は本文まで飛ばしてください。
This is Jane Wayneは、私が一番よくチェックしているドイツ語のファッション&ライフスタイルWebマガジンだ。これは、Sarah GottschalkとNike van Dintherという女性ジャーナリスト2人が、Vogue誌などの支援で(20代で!)立ち上げたサイトである。ファッションや、その月に読むべき本などについて、かなり頻繁に記事が更新されている。オシャレなスナップなどに「これは私に関係ない世界のもの」と距離をもって考えてしまう瞬間もあるけれども、ノートルダム大聖堂が燃えて莫大な額の義援金が集まった際の記事に「シリアの文化財は8年の内戦を経て壊滅状態なのに」と書いてあったりして、自分が普段の生活で気がつかない観点をくれる、やっぱり大好きなサイトだ。
ドイツでも新型コロナウイルスによる接触制限が3月22日から続いている。(ドイツ人の友人が失職した。結構大きな企業に勤めていたのに。)そんな中、This is Jane Wayneは、コロナ禍を受けた女性たちの生の声を掲載している。
中でも私が個人的に励まされたのが、シモーヌ・ボーヴォワールについての超クールな書籍『Oh, Simone!』(Rowolt, 2018)著者である、 ユリア・コルビック(Julia Korbik)によるものだった。
私は、ロサンゼルスからこの「沼」を更新してくれているイシイ君からアメリカの惨状を聞き、自分の認識の甘さを悔いて(だって3月の3連休は一人で熱海の温泉に泊まりに行ったし、毎日ぎゅうぎゅう詰めの満員電車で通勤していたんだから)自主的に「明日から家で働きます」と言って、3月31日から自宅での勤務に切り替えた。切り替えてみると、「家でできることって、多いんだな」という印象だった。むしろ効率がいいんじゃないか、と思ったけれども、その気持ちも長続きしなかった。自分一人でリズムを整えて、コピーもスキャンも印刷も家ではできないし、部屋でゲラを読むならまだしも、今仕事で読まなければならない原稿は、フランス語訳された『オデュッセイア』を日本語訳したというものだ。図書館が閉まってしまったので、既訳(それも複数)との比較はできないし、机は狭い。それでもなんとか頑張ってはいるけれども、進みは遅い。実験的に朝早く仕事を始めてみる。そうこうしているうちに会社から、定時の通りにはたらくこと、就業時間内は電話・メールに即座に応答すること、といったルールが送られてきた。でも、なかなかうまくいかない。そうすると、自分を責めてしまう。どうやら私以外の人は出社しているらしいのだが、ヨーロッパの友人から、どうして絶対的な必要もないのに出社するのか、と問われ、ふっと我に帰る。家でできることは家で、じゃなくて、どうしても会社でしかできないことがあるときにだけ、短時間、必要なだけ出社する(それもソーシャルディスタンス=2mをとって)、というのが正解なのだ。
私はまだいい。子どもがいるお友達の話を聞くと、絶対に仕事なんかできない状況だ。私は子どもがいないので恥ずかしながらそれがどれだけ大変なことか想像が及んでいなかったけれど、育児っていうのは、本当に大変だ。それ自体が一つの仕事なのだから、休校で子どもが家にいて、それで仕事なんてとても無理だ。でも、働かなきゃいけない。普段だって大変なのに、保育園も学校も休みだ。お友達の一人は、家の中で一人になれるのがトイレしかないので、トイレで泣きながら日報を書いているとSNSにポストしていた。いつものようになんか働けない、とみんなが困っていた。
そんな時(ここでようやく本題)ユリアのコラムを読んだ。そして、このコロナ禍に、家で仕事をして、普段と同じようにできっこない、ということにものすごく心が励まされた。
そう、普段通りなんて、無理なのだ。
それを認めることだけでも心が軽くなるし、その対処を考えるのは私たちのような従業員一人ひとりの自助努力とかそんなんじゃなくて、管理職の意識が変わらなきゃいけないし、究極のお上(かみ)たる政府にも、それをわかってほしい。
もし悩んでいる人がいたら、普段通りできないことはあなたのせいじゃない、あなたの努力不足なんかじゃない、と伝えたい。もっと多くの人に、ユリアさんの記事を読んで楽になってほしい。現状の自分は、それだけでもすでに過剰に頑張っている成果なんです!!!ハグ!!!!……という気持ちで著者のユリアさんに連絡をとったところ、快く翻訳と転載を許諾してくださった。ということで、(いよいよ)以下が全訳です。よろしければ感想を教えてください。
や
「ベストを尽くして」
(make the most of it! (or it?) )
--新型コロナウイルスと生産性フェチについて
ユリア・コルビック
(2020年4月6日)
(This is Jane Wayne 掲載の記事(以下リンク)より本人の許可を得て全文を訳出)
もう聞いたかわからないけれども、シェイクスピアは『リア王』をペストで隔離されている時に書いた。同じようにアイザック・ニュートンも、ペストによる自己隔離の最中に彼の偉大な物理や数学の理論について、ベースとなる考えを発展させた。これらは、今インターネットでたくさん言われている事例の内の、たった2つ。多くの事例は、世界的なパンデミックによって、思いもかけない創造性や活動が引き出されると指し示す。もっと言えば、世界的なパンデミックは生産的に用いなきゃ、って。
ソーシャルメディアには、世界文学の古典を読むんだっていう人、今度こそ自分が小説を書くんだっていう人、外国語を勉強しようという人、新しいプロジェクトを始めるとか、オンラインのコーチングを受ける人、自分のポートフォリオを整える人などなどなどが溢れている。だって、どうしてそうしちゃいけないわけ? 友達には会えないし、カフェにもジムにもいけないし、ブラブラ買い物にだっていけないし――言わば、普段だったらやっていること全部――ができなくなって、退屈極まりない現在においては、憂さ晴らしは今すぐに必要なこと。何かそれで忙しくなったり、気持ちを紛らわせたり、ルーティンを持って、少なくとも2、3のことは自分がコントロールできているという感じがすると、多くの人は気分がよくなる。私は自分がその中の一員かわからないけれど。
生産性フェチ
私は、各人にそれぞれ別の見方がある、対処療法を批判したいんじゃない。私が嫌な感じを受けているのは、いたるところで唱えられている、私たちは状況に応じて「ベスト」を尽くさなければ、というマントラで、かつその背後にある、何事からもどうにかしてそこから利を得ることができるんだ、とする考え方のことである。というのは、なんと言っても、ただでさえストレスフルな状況が、さらにストレスまみれになるから。なぜなら、世界的なパンデミックが起こっているかたわらで、今や多かれ少なかれ、この時期をできうりかぎり生産的に使って、楽観的になって、自分で仕事をして、健康でいることが、Covid-19の時期における義務のようになっているから。いつでもこうしてなきゃいけないって。
今のところコロナ禍は、私たちの仕事も、仕事以外の生活も、経済も、政治も、すさまじく何もかもめちゃくちゃにしている。でも、呆れるほどにそのままに残っているのが「生産性フェチ(die Fetischisierung von Produktivität)」だ。別の言い方をすれば、世界的なパンデミックは、自分の中のさらなるベストを見つけ出そうとしないことへの理由には、毛頭ならないとする考え方。いつものように家でもはたらく? とんでもない! もっと上を目指さなきゃ! とする考え方のこと。これはもっともめちゃくちゃな形のハッスル文化だ。従業員たちが家にいても「家にいるようにくつろぎすぎる」ことのないように、世界のどこでも企業は(さらに政府までも)、めちゃくちゃなルールを定めている。Covid-19はスッピンでいていい理由にはならない、E-mailは即座に開封すべし、と。いつものようにビジネスを、というわけだ。
(訳注:ハッスル文化については次の記事を参照。
「「ここでは、誰もがハッスルして(頑張って)何かをしようと日常的に話している」(…)明確に言うと、ハッスルとは単に一生懸命働くことではない。一生懸命働いていると見せることだ。仕事のためにどれだけ動き回らなければいけないかをインスタグラム(Instagram)に投稿し、骨の髄まで働かなければ十分に仕事をしていないことになる」
うまく折り合いをつけること
でも、家に子どもがいる人は?――お年寄りや、病気の人や――家族の世話をしなければいけない人は? もしそれらの世話を、仕事の「かたわら」でしなければいけなかったら? 現実的に何かにとても困っていて、どうやって生活費を工面すればいいかわからないでいる人にとっては?
自分の勤めている会社や同僚たちと、この先どうやって付き合っていけばいいかかわからないという人は? 朝に起きることだけでも精一杯で、どんな方法や仕方でも、今は生産的になることなんてとても無理だと思っている人は? これらの人たちは価値が低いっていうこと? なぜなら、この人たちはいつものような働きができないからって? じゃあ、スーパーのレジで働いている人、医療機関で働いている人、郵便物を運んだり、その他にもこの国が壊滅しないようにしてくれている人は? この人たちは、派手ではないけれども、やらなければいけないことをこなしている。この人たちこそ、実際のところこの状況下でベストを尽くさなければならないという人たちで、――しかも私たち全員のために働いてくれている人たちなのだ。
「もう、本当に疲れちゃった」とファビアンヌ(※)は書いた。こう考えるのは、もちろん彼女の権利だ。私たちみんなもそう感じる権利がある。私たちは、シェイクスピアになろうとしなくていい。それにアイザック・ニュートンにも。私たちは、もっと仕事をこなしたり、自分に対して前向きになろうとしたり、あるいは世紀の小説を書くためにコロナ禍を使わなくったっていい。私たちは、何よりも、健康でいなきゃいけない。あるいは、私たちに必要なことがあるとすれば、それはうまく折り合いをつけてやっていくということ。自分のことを、そして家族のことを大事にするということ。周囲の人に気遣いを向けるということ。この危機を耐えるんだということ。そして、そのことだけでも、とても大変なことだ。
※訳注:同じThis is Jane Wayneに掲載された別のコラム。「不愉快な真実――私は本当に疲れた」。著者のファビアンヌは、経済的な不安や、家族や友人に会えない寂しさ、トイレットペーパーの心配をしなきゃいけないこと、運動や在宅勤務、Zoomでのオンライン会話、などなどに押し潰されて、疲れ切ってしまったと書いた。
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