ハチドリの死について
職場のガラス窓の向こうに白い木片が落ちているように見えた。よく見ると左右対称に翼が突き出ている。大きなスズメガだろうか。ガラスの外側に回ってみるとどうやら鳥だった。ビルの陰になったコンクリートの上に、ハチドリが仰向けにひっくり返っていた。
私が去年から住んでいるロサンゼルスは、砂漠の街なのに緑が多い。街中で常にスプリンクラーが回っていて、椰子の木やブーゲンビリアなど、世界中から集められた園芸植物の命をつないでいる。水源は遥か遠く、内陸の山岳地帯だ。外からの資源で支えられる、本来ここにはいなかったはずの木や草たち。底抜けの青空の下の緑は、入植者たちの南国への憧れがそのまま形になったようで明るく美しい。
しかし昨年十月、ここに引っ越してきた当初、私はそんな貼り付けたような明るさに馴染めないでいた。雨の降らない土地では植物は育ちにくいはずなのに、どこに行っても芝生が青々としている。あまりに「つくりもの」に過ぎると思ったし、その「つくりもの」に囲まれて暮らしていく自分も想像できなかった。
そんな、現実感のない、後ろめたいような気持ちで通勤バスに揺られていたある日、視界に一瞬光が走った。あっと思って窓の外を目で追ったが、光は飛び去った後だった。それでもそれがハチドリだったことは分かった。あんなにきらきらしてホバリングのできる生き物は他にいない。テレビで見た熱帯の宝石が、こんな片道三車線の幹線道路脇を飛んでいるなんてまったく予想の外だった。満員のバスの乗客の誰も、親指大の小鳥に気を取られた様子はない。私はひとり嬉しさに浸っていた。この街にも私の理解の及ぶ生態系がある。
アメリカ大陸の暖かい地域に分布するハチドリが、暖かいロサンゼルスに住んでいるのはごく自然なことだ。この人工的な街の中でも、こんなふうに違和感なく理解できるものを足がかりに、納得できる世界を広げていけるのだ。そうすれば少しは自由に息ができるようにもなるだろう。東京から出たことがなかった私にとって、新天地に対する最初の明るい予感はハチドリがもたらしたのだった。
話を現在に戻して、コンクリートの上のハチドリには生気がない。外傷はないが、状況から見て、ガラスに衝突して死亡したと考えるのが妥当だろう。道行く人に注目されないように何食わぬ顔でかがみ込み、指でつついてみる。やはり動かない。目は半分ふさがっており、長いくちばしの先から糸のような舌が、突き出したまま固まっている。仰向けの体を反転させると、金緑色の背中が日に当たって鈍く光った。
指先でそっと持ち上げるとほぼ重さがない。くちばしから尾まで10cmもなく、私の中指くらい。くちばしはミシン針のような細さ、翼の風切羽根も向こう側が透けて見えるほどの繊細さだ。羽毛の一本一本は綿ぼこりのようだが、クジャクの羽根にも劣らない華麗さで、光線の加減によって様々な色を見せる。小さな体に、生きるための機能が無駄なく満載されているのがよく分かる。
まさにハチのように目にも留まらぬ速さで飛び回るこの生き物を、じっくり観察できる喜びが三割、気持ちの残りの部分は、この素晴らしい生命が「そこにガラスがあったから」ということだけで失われてしまったことへの悔しさだ。
悔しいからといって何ができるわけでもないが、このまま舗装の上に放っておいても土には還らないし、清掃の人にゴミ袋に詰められてしまうのも忍びないので、こっそり紙に包んで自宅に持って帰った。持って帰っても私にはこれを標本化して科学の糧とする技能もない。記録のために写真を何枚かだけ撮って、アパートの近くの植え込みの奥にそっと横たえるだけしかできなかった。
ハチドリの死骸についてのこんな感慨は、まったく私の主観でしかない。部屋でハチドリの写真を一所懸命撮りながら、コリアタウンで買ったレトルト参鶏湯をうまいうまいとすすり込んでいるのだから世話はない。世話はないのだが、こんな主観も書き留めておく意味があると言ってくれた人がいるので、ここで月一回ほど見聞をまとめていこうと思う。たまにお付き合いくだされば幸いです。
イシイシンペイ
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