旅は読書のようなもの

 カレル・チャペックといえば、チェコが生んだジャーナリストにして、「ロボット」という言葉を生み出したおエライ作家です。最近は彼が記した絵本のキャラクター「ダーシェンカ」が、チェブラーシュカのようにならないか日本で試みられた形跡がうっすらあるのですが、それほど知られている人物ではないかもしれません。

 就職前に1ヶ月10万円でヨーロッパを横断しようとぼおっと旅立ったのは2013年1月のこと(この旅については、いずれもっと詳しく書きたいと思っています)。旅の終盤、ドイツからバスで入ったオーストリアでは、友達がウィーン大学日本研究科を案内してくれて、ちゃっかり私は、在校生向けの「無料本」ボックスから1冊を貰ってきました。それが、カレル・チャペック『コラムの闘争』(田才益夫編訳、社会思想社、1995年)だったのです。

 その旅は、よりにもよって修士論文の提出の2日後、引越しの翌日に出発し、かねてから免疫力が落ちまくっていたところ、最初の目的地・極寒のハイデルベルクにて、城の下(もちろん野外)で友人の車の雪下ろしをさせられたりしているうちに変な風邪を引いてしまい、痰が絡むわ熱は出るわ咳をしすぎて胸は痛むわ……で、数日後にドイツからトルコ人しかいない格安飛行機(多分5000円ぐらい)でアンカラを目指す頃にはフラフラ状態でした。到着後、お世話になった友人の指示通り、彼女の名前を語り(彼女の保険を使って)病院へ行くと「ベリーバッドシチュエーション。ついでに頭蓋骨のレントゲンを撮らせてくれ」と、なぜかトルコの医学界に日本人の頭蓋骨データを提供しつつ、どうやら肺炎になりかけているとわかった。というのがドタバタ旅の序盤。

 それからどうにか回復し、アテネ、ローマ、サルデーニャ、フランクフルト、ハイデルベルク、と経由して夜行バスでウィーンに入ったのでした。そこで手にした本を読みながら、ザルツブルク、マティッヒホーフェン、ミュンヘン、ハイデルベルク、と巡って帰国してきました。

 旅の途中、ザルツブルクを経由して、友人のお父さんが牧師をしているマティッヒホーフェンを目指している電車の中、三角と四角のお絵かきのような一軒家の中で、老夫婦が、垂れ下がった照明器具のもと、小さなダイニングテーブルを向かい合わせに囲んでいた姿がパッと網膜にうつりました(あの辺りの人はカーテンしませんよね)。その一瞬の風景が、なんだかすごく印象に残って、いまでも脳裏に焼き付いている気がします。

 で、なぜこの話をしたかというと、カレルのコラム「ごあいさつ」の話をしたかったからです。これは、カレルが亡くなった当日に新聞に掲載されたものです。

「人はいろんな国について何かしらの印象をもっています。でも、それはその民族が大事な宝にしているような、そんなものとは必ずしも一致するとはかぎりません。ある国や民族を、その政治や体制や政府や一般の世論や、あるいは、そういった類いのものと何となく一致させるのがもう習慣の何かなのです。それは決して自分で考えだしたり、決めつけたりできないもの、あなたが見たもの、まったく偶然に出会ったもの、ありふれたもの、そういったものがあなたの記憶のなかに自然にも強くあなたの記憶に焼き付いているのか、誰にもわかりません。要するに、たとえば、イギリスを思い出す、それだけでいいのです。するとその瞬間、あなたの眼前に浮かんできます――
 私の場合なら、それは端的に言って、ケントの一軒の赤い家です。それに何かのいわくがあるわけではありません。列車がフォークストンからロンドンへ猛スピードで走っているとき、ほとんど一瞬、それが目に止まったのです。本当はその家はとくに取り立てて言うほどのものではありません。庭に老人がいて剪定ばさみで生垣を刈っていたのです。そして、もう一方の側には低木の茂みがあり、一直線の道を娘が自転車に乗って走っていた――ただ、それだけのことなのです。――
 今日では、国と国とがすごく遠ざかったように思います。だから人間はいろんなことを考えます。本当に、多くのことに腹を立て、そして言います。何があったか、絶対に忘れないからな、と。ですがね、このかつてない遠さと他人行儀について私たちは何を言うことができるんです? そこで、たとえば、イギリスを思い出します。すると急に目の前にケントの赤い家が見えてきます。老人は依然としてはさみで低木を刈りこんでおり、娘は背を張って元気よくペダルを踏んでいます。ほら、あなたは本当は挨拶がしたいんでしょう?「ハウ・ドゥ・ユー・ドゥー?」「ハウ・ドゥ・ユー・ドゥー?」「いい、お天気ですね?」「イエス・ベリー・ファイン」――ほうら、ごらんなさい、もう終わりました。これで心が軽くなったでしょう。(引用、前掲)

 まさしく、このくだりが呼び起こすものは、私にとって、名もない、あのザルツブルクからマティッヒホーフェンにかけてのどこかにある、お家の、実在している夫婦のことなのです。そしてその家の中にはきっと家族写真なんかが掲げられていて、外には手入れをした植物があって、そのひとつひとつにはそれぞれ1時間なんかでは語りきれないストーリーがあるはずなのです。しかも私と彼らには何の関係性もなく、彼らは私と出会うこともないだろうけれども、自分の世界の外に、生きている人がいて、その人の背後にはとんでもない数の物語と人間とが宇宙のように控えているのだと、強烈に意識した瞬間でした。

 そして、そんな人が一人いると知ってしまった以上、もっといるはずなのです。私たちが出会えないのは、やっぱり少し寂しいかなと思います。出会えるとすれば想像のなか、もしくは、未知の可能性のなかだけなのでしょうか。

 コラムの締めくくりには以下の言葉が出てきています。

「国と国との間がすごく遠くなってきました。私たち誰もがだんだん孤独になっていきます。君はもう家から一歩も出ないほうがいい。門をしめ、窓を閉じたほうがいい。そして、今こそ私たちすべてを愛してほしい。」

 このコラムが発表されたのは、1938年12月25日のこと。同年3月にはナチス・ドイツがオーストリアを併合し、11月には、のちにホロコーストの端緒とされる、ユダヤ人迫害、「水晶の夜」事件が起こっています。

 2013年の旅行中、ホステルでプリーモ・レーヴィを読んでいる子を、サルデーニャの空港でレーヴィの本を見かけました(帰国後に何冊も読むことになって、人生のモットーとなる一節にも出会うことに)。アテネでレーヴィを読んでいたチリの子には「前に滞在していたホステルから『パクって』きた。もう読んだからあげる」と、人身売買の小説を貰い、サルデーニャの港にあまりにも早朝に到着して友人の迎えを待つ数時間に、恐ろしさにガクガクブルブルしながらも読み進めたり、反対に日本から持ってきた、何年も身近に置いていた大好きなリルケ『マルテの手記』は、カバンに入れ、閑散とした冬の浜辺で居眠りしている間に、なぜかピンポイントで犬(写真参照)に盗まれ砂に埋められてしまい、その後数年にわたってサルデーニャに収まったのちに、突然手元に歯型付きで帰ってきたり、ということもありました。

 読んだものというのは、現実の経験とは別のはずなのに、ものの見え方に影響を与えるし、自分とは切り離せないものになってしまっています。旅先で読んだ本も、聞いた話も、もう旅そのもので何か自分が目にしたり、口にした記憶と、完全にくっついてしまって、おまけに当時はヘッポコな英語を話していたとしても、記憶はついつい日本語を経由するので、私は自分がどこを旅してきたのかわからない。。。

 そんな半分夢のような旅の話を、これからもちょくちょく更新していくかもしれないし、しないかもしれません。

 

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