ピアノへと続く鉄道

 私の記憶は満鉄の車窓から始まる。

 春の夜桜の枝をかき分け、流星の如く疾走する満鉄の窓辺に私は乳母の腕に抱かれ外を眺めている。

 

 先ほどググってみたら、おぼろげな記憶の中のあの列車、「あじあ号」というらしいが、父と私との間でそれは常に「流星号」と呼ばれていた。流星の如く速いというのもそうだけれど、なによりその流線型の車体をした機関車が私たち親子の間でそれを「流星」に結びつけた。

 とは言っても、父と「流星号」に乗った記憶はない。


 幼年の時、私はイシダさんとタチバナさんという乳母に育てられていた。もっと前にはタカミさんという方がいらしていたと聞いたことはあるが、私には彼女の記憶はほとんどない。

 その、イシダさんか、タチバナさんの胸に抱かれて、私はきっとあの流星号に乗っていたのだ。子守唄を聞きながら。

 子守唄は覚えていない。「ねんねこしゃっしゃりな〜」か「ねんねんころりん」だったか、まあ、そんな歌であったのだろうけれども、私にはそんな歌まで覚えているような超人的な記憶力はない。ないけれども、確かにその歌のVibeは覚えている。耳が覚えている。

 春の夜、仕事から帰宅し、独りうたたねをしながら、JBLから流れるローズピアノの音を聞いていると、イシダさんだったかタチバナさんだったかの唄声が記憶の外から、耳の中から蘇ってくる。彼女の声は、ローズピアノのトーンジェネレーター(タイン)を叩くハンマーが鳴らす蚊の泣くような音として耳の中に残っている。

 あれは何かの記憶違いで、もしかしたら、本当はケノンのフリューゲルホルンのような柔らかくエロティックな中年女性の喘ぎ声のような野太い音だったのかもしれないけれど、そういう女性のエロスに私の意識が向くずっと前の話だからはっきりとはわからない。


 フリューゲルホルンの魅力なんて、中年女性の魅力のようなもの。オトナにならなきゃわからないもんなぁ。


 管楽器の話をしかけたので、その話を続けよう。


 ジャズ界の稀代の天才トランペッターで問題児、チェットベーカーはMartin Committee Deluxeという楽器に相当なこだわりがあったらしく、わざわざマーチンの工場に出向き15本並べた中から自分のための一本を選んだと語っている。彼のデビュー作から続く50年代中期までの名盤の数々は全て、彼が15本の中から選んだその一台により吹き込まれている。

 50年代後期、薬物の問題でアメリカでの活動が難しくなったこともあり、チェットはイタリアに渡り活動する。愛用のMartin Committee Deluxeを小脇に抱えてアメリカを出国している。

 チェットとMartin Committee Deluxeの図はとても絵になる。実際、若き日のチェットの写真には常にこのトランペットが写っている。恋人と戯れるチェットの傍にも写っている。チェットにとって、あの楽器はかけがえのない伴侶だったのだろう。

 私も、同時代のCommittee Deluxeを持っているけれど、華奢なつくりながら、確かに風格があり、“Deluxe”というだけあって、ベルにはちょっとだけ控えめに彫刻がされている。肝心のサウンドも「まろやかな音色」から「バリッとした音」まで吹き手の腕次第で鳴らし分けられる無限の表情を持つ楽器だ。

 Martin Committee Deluxeを愛用するジャズトランペッターは数多いる。

 かの、マイルスデイヴィスも一時期Martin Committee Deluxeを使っていた(金メッキのベルにゴリゴリの彫刻が入ったもの)。

 しかし、あの楽器をチェットのように鳴らせるトランペッターを私は他に知らない。


 チェットは愛用したその楽器をイタリア滞在中になくしてしまう。そして、持ち帰ったのがフレンチセルマーのフリューゲルホルン。

 60年代に録音されたチェットが30代の頃のアメリカ復帰盤のほとんどは、そのフレンチセルマーで吹き込まれている。そして、彼はそのフレンチセルマーとともに地獄巡りへと旅立つ。

 5年ぐらいそのフリューゲルホルンで活動したのち、彼は麻薬のトラブルで強面のお兄さんたちに歯を折られ、トランペットが吹けなくなってしまう。

 70年代にディジーガレスピーの尽力で劇的な復活(決定的名盤「She was too good to me」を提げて)するまで、チェットベーカーはジャズの年鑑から名前を消してしまう。70年代に復活した時に彼が手にしていたのはConnのConnstellation(入歯とともにディジーガレスピーから提供された)。その後、Buescher Aristocrat Model、Getzen Capri、 Bach Stradivariusと彼は楽器を持ち替えるが1988年4月28日の最後のコンサートまで、ついに彼は再びMartin Committee Deluxeで録音することはなかった。


 彼がMartin Committee Deluxeを手放した(なくした?盗まれた?)ことは、ある意味彼の音楽人生を象徴している。彼はMartinを手放した時からもう、新星トランペッターではなくなったし、ひょっとすると浮世の人間でもなくなったのかもしれない。


 チェットが残した全てのレコードから聞こえてくる彼のラッパの音そのものは、Martin Committee Deluxeの頃からほぼ変わることはない。けれども、Martin Committee Deluxeを吹かなくなった後の彼の音楽には常に暗い影が漂っている。夜霧のように暗く透明な影が。チェットの音楽を語るとき、彼の用いた楽器が語られることはあまりないけれども(私は方々でこの話を持ち出しているのだが)彼とMartin Committee Deluxeの関係はもっと多くが語られるべきであるのかもしれないし、もしかしたら本人たちはそっとしておいて欲しいのかもしれない。


 よく使い込まれた楽器には、それが奏でる音楽、音、呻きが、そして練習による汗、涙、鼻水、鼻血がついている。チェットが手放してしまったMartinのごとく。


 明日、私の手元に一台のRhodesピアノが来る。

 渋谷の老舗練習スタジオが廃業するのに伴い払い下げになったローズピアノ。1978年製で、おそらく新品で購入されたものだから、約40年私より2つ年上の楽器である。


 私が乳母の子守唄を聞いていた頃には、すでにあの楽器は渋谷のスタジオで音楽を奏でていただろう。おそらくは当時流行っていたBob JamesやRichard Teeの旋律を、あの楽器は何度もなぞってきた。もっと後の時代になって、Rhodesがノスタルジアの対象になった時にも、そのノスタルジアをなぞってきたのだろう。

 そのスタジオから譲ってもらう交渉をした晩、スタジオのオーナーからこんな話を聞いた。


 あのローズは随分前に一度メンテナンスに出してるんですよ。

 お客さんにコーヒーをこぼされてね。

 参りましたよ。


 このスタジオは青学の学生さん、特にジャズ研の方が使ってくれてたんですよ。もう、ずっと何十年もね。うちは、ウッドベースとピアノがあるからね。

 だから、あんまり激しく使う人がいないから、楽器もあんまりすぐにはへたらない。だから長持ちするんですよ。


 ところがね、去年青学に立派なサークル棟ができて、防音室が10部屋ぐらいあるんですよ。これじゃあ、商売上がったりです。

 参りましたね、サークル棟とコーヒーには。


 私が産まれた頃から、汗、涙、鼻水、鼻血及びコーヒーをぶっかけられつづけたローズピアノ。挙句には新設されたサークル棟に倒されてしまった老舗の練習スタジオ。そこにあったローズピアノが、明日、私の書斎に収まる。


 ああ、今日は数年前に交通事故で亡くなったタチバナさんにお線香あげて寝よう。

2018年4月2日

Ryoshiro Sasaki

沼ZINE

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