A Long Road to Rhodes
名だたるピアニストたちがスタインウェイ(ベヒシュタインでもいいのだが)で100の音符を並べて勝負しているとき、ハンプトン・ホーズはローズピアノで24の音符で勝負をする。
彼の音楽についてそれほど多くを語れるわけではないけれど、私の書斎に一台のローズピアノが納まったのは、少なく見積もってもハンプトン・ホーズの一枚のレコードが多分に影響している。1973年録音の”Playin’ in the yard”というそのレコードは、私をローズピアノの傍に一気に惹き寄せた。
ハンプトン・ホーズも多くのジャズマン同様に麻薬の問題で苦労したということと、彼が第2時大戦後の占領下の日本で軍務に就き、仕事そっちのけでピアノばかり弾いていたということは聞き知っている。私が彼について知っていることはそれぐらい。それでも、”Playin’ in the yard”のなかの”De De”という8分余りのトラックは、私をして115cm×58cm×85cm(システムキッチンの半分ぐらい)という狭い書斎に置くには十分すぎるくらい大きなエレクトリックピアノを何としてでも欲しいと思わしむる力があった。
この"De De”という曲は一聴すると、どこか「Amazing Grace」と日本の童謡を掛け合わせ、ちょっとお洒落にしたような可愛らしい曲なのだが、この曲のハンプトン・ホーズのローズピアノが良い。言葉少なげに、語りかけてくる。
たまらん。泣ける。よだれが出る。北関東の田舎から出てきたばかりのハタチぐらいの女性の太ももを見ているぐらい惹きつけられる。これだけでご飯が3杯ぐらいいける。ブランデーをかたむけると、ポケットスキットル1本分ぐらいいけてしまう。ほかにおツマミは要らない。まあ、8分でご飯3杯食べたり、ブランデー180ml飲んだりするのは身体に悪いだろうが。
この一曲で、ローズピアノの音色の魅力は十分にわかる。
アップライトピアノ、デジタルオルガン、ローズピアノである。
あまつさえ、いつかはグランドピアノを置きたいなどとも考えている。
私は、何の因果かピアノ屋に勤めているのであるが、元来ピアノは全く弾けない。つい1年ほど前まではギターメーカーに勤めていた。ギターは中学2年の頃から持っているので、たしなむ程度には弾ける。まあ、ギターなんかは大して弾けなくてもそこそこの形にはなるのだがピアノはなかなかそうはいかない。世間一般では、ギター屋はギターが弾けて当然。ピアノ屋はピアノが弾けて当然と思われているのか、店に来店するお客さんも私に気軽な感じで「ちょっと弾いてみてください」などという。ピアノ屋に来るお客さんの大半は、ショパンやらベートーヴェンなんかを軽々と弾けて、その上で「ちょっと弾いてみてください」である。これが困ったところである。
私の会社でピアノが全く弾けないのは、おそらく私ぐらいのものなのであろうか。会社で日頃、でかい口をたたいている私を一番困らせるのはお客さんの「ちょっと弾いてみてください」の一言である。仕方ないので「イヤぁ、ちょっと私はその、そっちのほうはどうも不案内で」などと言ってお茶を濁している。
考えてもみたまえ、飛行機や船、ブルドーザーのセールスマンがそれらを操縦できるというわけでもないではないか。高級不動産屋が必ずしも高級住宅に住んでいるわけではないではないか。それと同様、ピアノを弾けないピアノ屋というのも確かに存在しうるのだ。(苦しい言いわけだなぁ、、、)
それでも、いま現在、私の自宅には鍵盤楽器が3つある。
楽器屋というのは因果な商売で、常に楽器の魅力を語ったり、お客さんが喉から手が出るほど欲しいと思う楽器を仕入れたりするのが仕事のようなものだから、働いているだけで無性に楽器が欲しくなる。四六時中楽器を眺めているんだから、こればっかりは仕方ない。豪華客船やら、フェラーリやらを扱う商売でなかったのが不幸中の幸と言えるかもしれないけれど、書斎には所狭しと楽器が溢れていて、それだけでは事足りず、寝室の押入れやら、ダイニングキッチンの壁にも楽器をおいていたりする。
それで、ローズピアノである。ハンプトン・ホーズにヤられてしまって買ったローズピアノである。
古く寂れ、廃業してしまった練習スタジオの備品の払い下げだから随分くたびれている。外装が汚いのは雑巾で拭けば何とかなるのだが、自宅に運び入れて中を開けて掃除していると、ピアノの中から小銭、ギターピック、自転車の鍵、缶コーヒーのリングプル(若い人は知らないだろうな)、オロナミンCの蓋なんかが山ほど出てきた。
なんとか音は出るのだが、鍵盤もガタガタである。鍵盤と鍵盤の間の隙間が1ミリぐらい空いていて、それぞれの鍵盤が左右にカタカタいう。これは、専門用語でいうと、鍵盤の底に貼ってある「フロントキーブッシングクロス」というフェルトが磨耗してしまっていて、こうなっている。「キーブシングクロス」を貼り替えねばなるまい。73鍵ぶん替えるのはなかなかの手間だ。
そこで、応急措置として、鍵盤を全て外し、「キーブシングクロス」にスチームをあてて、フェルトの磨耗を少しだけマシにしてみた。
これだけで、なかなか大変な作業なのだ。ローズピアノの蓋をとりはずし、「Harp Assembly」という楽器の心臓部分のような部分を持ち上げ、アクションを分解しなくてはいけない。そのあと、73個全ての鍵盤を外し、「バランスキーブシングクロス」と「フロントキーブッシングクロス」にスチームをあてる。文章にすると5行ぐらいで済む話だけれど、これが慣れていないと2時間以上かかる。
ピアノの鍵盤を全て外すと、そこには虚しい空洞が現れる。
鍵盤楽器としての用をなさない状態になってしまったピアノの姿は、なんとも不憫である。楽器としての用をなさなくなった「抜け殻」という形容がぴったりの物体と化す。なんだか、申し訳ないことをしているという気持ちにすらなる。
鍵盤の下にも、小銭、ギターピック、どこからとれたかちっともわからないネジなんかのゴミがたくさん出てきた。掃除機でせっせと吸い出す。
これも、全てはこのローズピアノをちゃんと弾ける状態に戻すために必要な作業なんだ。どうか堪忍してくれ。という、祈るような気持ちで作業を進める。ハンプトン・ホーズの”De De”のあの音を再現するために踏まなければいけない道程なのだ。
「キーブシングクロス」にスチームをあて、その他いろいろな措置をほどこして、鍵盤を元に戻して、何とか再びローズピアノ姿には戻した。ペダルもセッティングして、キーボードアンプに通し、音が出ることは確認した。
なんとか、弾けないことはない程度まで復旧させたが、あのハンプトン・ホーズが弾いていた優しく、可愛らしく、メローな音を奏でるローズのタッチを蘇らせるまでの道程は、まだまだ遠い。
2018年4月5日
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