ピアノエレジー「放蕩息子の帰還」
家族というものが苦手になってしまったのはいつの頃からだったろうか。
十二の時に中学の寮に入り、十五の夏に素行不良で退寮になってしまい、実家暮らしを2年ほどしたが、その後オーストラリアの高校へ行き、なんとか家から離れることには成功した。その後、高校3年生、大学1年間と実家暮らしをしたが、やはり実家の水が合わないのか、私は大学を中退して東京で一人暮らしを始めた。100%親のすねをかじっての一人暮らしを。
東京の西の隅で、私は大学生活をおくった。6年間の長い大学生活を。家賃、生活費、学費、被服費、飲み代、楽器代、書籍代、CD代(6年で約1,000枚のCDを買った)、カメラ代(約20台のカメラを買った)、フィルム代(毎月100ft缶を5箱消費した)、遊ぶ金、その総てを親の仕送りに頼った。着道楽だった私は、学生の分際でゼニアやらピアーナやらの生地で背広を作り普段着にしていた。
両親は私が在学中に定年退職し、年金生活に入った。母親の退職金のほとんどを、私一人で浪費した。「親の仇のように」という表現があるが、本当に「親の仇のように」両親の金を貪った。
そのくせ、大学が嫌で嫌で、ろくに通わなかった。4年生の1年間で私は4単位しか取得できなかった。ゼミの先生が温情でくれた4単位。
大学2年の夏に、父親が仕事で上京し、私は彼と面会した。国立の大学通りに面したフランス料理屋でランチを食べた。既に、2年生をもう1年やらなければいけない(それを私たちは「残留」と呼んだ)ことは決まっていたのだけれど、ついに父に「残留」の件については打ち明けられずじまいだった。
その日昼ごろに私たちは、大学の正門で落ち合い、大学通りを歩きながら話した。父は駅に向かう道沿いのバーミヤンを指差して
「お昼ご飯は、中華料理にするか?」
と聞いてきたのだが、私は
「親父、あんなしけた店で飯を食うとろくな人間にならねえや。俺がいつも行ってる店に行こうや」
と父をどやしつけて、フランス料理屋に入った。さほど高くはないが、静かで、料理もワインも悪くなく、ずいぶん猫が沢山いる店だった。
そこで、私たちは何も話すこともなくただフランス料理を食べ続けた。私だけがワインを飲んだ(父は全く酒を飲まない)。何も話すべきことがないのだ。大学にはしばらく顔を出していなかったので、大学について語るべきことなど何もないし、「残留」が決まったことも、なにもこちらから話すことでもない。私たちは、前菜から、デザートまで押し黙って食べ続けた。
「いつもこんなもんを食べているのか?」
ぐらい、聞いてくれれば、こちらも親子らしい会話もできただろうが、父も、私も口下手で、相手を会話に乗せるような話題を持ち合わせていなかった。
店を出て、別れ際に、父は私に東京銀行の封筒を渡し「5年で卒業してくれよ」とつぶやき、駅に消えていった。
中には5万円が入っていた。
私の、両親との心地のいい思い出はここまでである。あとは、ろくな思い出がない。私は彼らと折り合いが悪いのだ。愛されているのも、期待されているのも、見捨てられていないことも、わかる。わかるのだが。もう三十八になろうとしているのに、私は未だに両親との間に壁がある。
数日前、私は仕事で実家のある札幌を訪れた。
会社の偉い人が、私が札幌出身であることを知って、それでは北海道の営業担当は佐々木君に任せよう、帰省のついでに北海道で営業してこい、ということになり、札幌に出張せねばならなくなったのだ。そんなことだから、もちろん出張旅費にホテル代が出るわけもなく、実家泊まりである。
既に、一度北海道に出張には来ていたので、前回訪問したピアノ販売店へ行き、ピアノ調律師と面会した(私の生業はピアノ屋なのである)。
一日目の夜に私は、北海道でも名高い調律師の一人と、私の実家の調律師と3人で夕食を囲んだ。夕食はスープカレー、食後喫茶店にうつり、ロールケーキとコーヒーをご馳走してもらった。
この仕事に就くまで、まさか実家の調律師に夕飯とデザートをご馳走になる日が来るとは思っていなかった(夕飯はもう一人の調律師さんが払ってくれた)。前回の出張の際に、実家のピアノを分解していたら、調律カードが出てきて、私は彼と知り合ったのだ。調律カードに挟まっていた名刺のコピーの電話番号に電話をし、実はこのたびピアノ屋の営業マンになったので、会ってくれないか。なんせ北海道のピアノ事情についてよく知らないので教えて欲しい、と懇願したら会ってくれたのだ。
「本田さん(実家の調律師)、この前ぼくの実家のピアノの調律カード見たら、本田さんはぼくが生まれた年からうちに調律に来てくださっていましたよ。」
本当にそうなのだからしょうがない。彼は私が物心つく前からうちに調律に来ている。私が高校の頃、自室でエレキギターをかき鳴らしている横で、寡黙に調律をしてくれていた。私が家を出て行ってからも、20年近く、実家の調律をしてきたから。数年間帰省していない私よりも、場合によっては多い頻度で実家に来ている。
「おばあちゃんは元気かい? あ、死んじゃった。 こりゃ聞かなきゃよかったな、俺はいつもおばあちゃんとばっかり話してたから、懐かしいね。」
と、話は私の実家の話になる。数年前他界した祖母や、家政婦のこともよく知っており、過去20年間について言えば、おそらく彼は私よりも、彼女たちと顔を合わせたはずだ。特に、家政婦とは私が社会人になってからというもの、ついに一度も会うことができなかった。幼少の頃から私の面倒を見てくれた彼女は、数年前のある日、呆気なく交通事故で亡くなった。
私が実家の調律師であったら、年に一度の調律の度に家政婦と会うことができたかもしれないな。私には調律ができないから、それは叶わぬ夢なのだが。
私を育ててくれた彼女に、私の娘を会わせたかった。「ほら、おばさん、俺の娘だよ。可愛いだろ。」って一度でもいいから言いたかった。なぜ、私はこれほどまでに実家を避けてきてしまったんだろう。彼女にもう一度会えるのならば、私は両親との関係を修復してもよかったのにと思う。一時的にでも。
実家の調律師さんが、
「おたくのピアノは、先生たち(彼は私の両親を「先生たち」と呼ぶ)が引退してから、ほとんど弾かれなくなったんだね。そりゃ、先生たちが四六時中うちにいるようになったから、うるさがられると思って誰もピアノ弾かなくなるね。」
と言っていた。ここ十数年ほど、調律に来るたびに、うちのピアノは全然弾かれていないなと感じるようになったらしい。
「ちょうどうちの両親が引退したのが15年前で、姉が就職したのも15年前ですからね」
などと話しているうちに、彼は私を実家まで車で送ってくれた。仕事上は向こうがお客様なのに。
実家に到着して、荷物を降ろし、両親とは極力話さなくて済むように、私は缶ビールを開け、ピアノに向かった。ピアノがすらすら弾けるわけではないけれど、何か楽器でも弾いていれば、家族と会話をせずに済む。
缶ビールが3本空くまで、私はピアノの前に座り、その日調律師さんと話したことを思い出していた。
「もっと、ピアノ、弾くようにお姉さんに言ってくださいよ。誰も弾かなくなると、僕らも来なくていいってことになっちゃいますから」
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