生まれ年の楽器たちによせて
今日、腕時計がひとつ手元に届いた。1950年代のElginだから、もうかれこれ60年以上の時を刻んできており、そのせいなのか、腕時計としての現役をいつ何時でも退かんとしているように見受けられる。夕方6時過ぎにこれを開梱してから、まだ6時間ぐらいしか経ってはいないのだけれども、既に5回ほど止まってしまっている姿を目にした。腕時計というものが本来何年ぐらい使われることを前提に作られているのかは知らんが、こんな3センチ四方ぐらいの小さな機械が60年以上の月日を耐え忍んできたのだから、もうそろそろ、真面目に働かなくなっても勘弁してやらねばなるまい。
もっとも、腕時計の中にはパーペチュアルカレンダーという機能が付いているやつがある。月末に手で日付を合わせなくても、ゼンマイさえ巻き続けていれば100年間ぴったり正確な日付を表示し続けるというツワモノである。100年間正確な日付を表示するように作られているのだから、100年以上の使用を前提に作られているのだろうか。よくわからない。私の持っている一番古い時計は1920年代にアメリカのシカゴ・イリノイで作られたWalthamという懐中時計で、こいつは、製造されてから約100年が経とうとしているのに、未だにゼンマイさえ巻いておけば日差約20秒の範囲内で正確な時を刻んでくれる優れものだ。
時々時計の裏蓋を開けてみたりすると、ギリギリ目に見えるような細かい歯車が、真面目に時を刻んでいて、何だかとても申し訳ない気持ちになる。言い方が悪いかもしれないが、ガレー船を漕がされている奴隷を見てしまったような気持ちになる。(ガレー船の漕ぎ手って自由民だったかしら)
ああ、申し訳ない、もうかれこれ数十年、こいつらにこんな狭いところでコツコツとこんなことをさせてしまって、申し訳ない。というような心持ちがする。
だから、腕時計の裏蓋はなるべく開けないようにしているのだが(無闇に開けるもんじゃないんだけどね)、なんだか時々心配になって開けてしまう。それで、今日届いたやつも、すでに3回も裏蓋を開けてしまった。3回開けて、3回とも、何となく申し訳ない気持ちになった。
ああ、ちゃんと働いていてくれてるのね。すまん。疑ってしまい。どうか、見なかったことにさせてくれ。
と、つぶやき、蓋を閉じた。
腕時計もそうだけれども、楽器も60年ぐらい使われているやつで、今でも現役で使えるやつがけっこうある。ピアノなんて極端なものでは19世紀のピアノでも「古楽器」でなく、現役の「モダン楽器」としてバリバリ使われているのがいくつもあるし、私もそういう楽器を仕事であつかっている(「モダン楽器」とは楽器の用語で、現代では一般的に使われなくなった楽器である「古楽器(ピリオド楽器)」の対義語で、現代に普通に使われている楽器を指す)。あれなんかも、本当はけっこう気の毒なことしているのだけれど、楽器としての機能は全く問題ないし、むしろ「ちょっとこなれてきていて良い」なんて言われたりしちゃって、ガンガン使われていたりする。
ピアノは、だいたいどんな状態でも修理・パーツ交換は可能だから、理論的には半永久的に使える。その「半永久的に」というのが気の毒で、19世紀のピアノをコンサートホールでの演奏会なんかに本当に使っちゃったりしている。これがまた、案外良い音がしたりするんだ。
私の手元にある楽器でも、古いやつは1950年代のギターがあったりして、時々出してきて爪弾いたりしている。エレキギターに関して言えば、50年代の楽器は何だか作りが丁寧で、ジャリンとして音抜けも良く、小さな音で爪弾いているだけでも良い気分になってしまう。60年代のエレキギターはもっと甘くってまろやかな音がするのが特長だ。60年代の楽器だって、もうかれこれ50年以上活躍してきているわけだから、もうそろそろ引退させて、悠々自適な余生を送らせてあげないと気の毒なんだけれど、遠慮なく使っている。あまつさえ、時々バンドの練習に持って出かけたりしている。
楽器は本来何年ぐらい演奏されることを想定して作られているんだろう。楽器屋の端くれのくせに、詳しいことは私にはわからない。
人間の私は、今まだ三十八歳なのだけど、既に色々なところにガタがきている。ガタはきているけれど、まだまだこれから頑張らねばならない身の上である。なんせ、まだ25年分ぐらいの住宅ローンが残っているんだから。100年前に作られた時計や、60年前に作られた楽器を現役で使わせてもらっている立場上、まだ40年も使われていない自分自身はまだまだ若造で、これからが活躍し時だとも言える。
生まれ年の楽器を集めたいと心のどこかで思っているのかもしれないが、私の手元に置いてある楽器の多くが、1980年前後に製造されたものである。
書斎に置いてある楽器だけでも、1980年製のフェンダーテレキャスター(エレキギター)2本、フェンダーストラトキャスター(エレキギター)1本、1979年製テレキャスター1本、1978年製クラシックギター1台、Rhodesピアノ(エレクトリックピアノ)2台がある。それに加え1978年製のアップライトピアノ1台が、これはリビングに置いてある。
1980年は、エレキギターに関して言えば冬の時代で、かつてはその前後に製造されたエレキギターはゴミのような値段で売られていた。所謂ヴィンテージと呼ぶには若すぎるし、中古楽器としては古すぎる。そのため、中古市場では一番値段がつかないのがこの年代のものである。今でこそ、少しずつ相場は上がってはきているようだが、それでも、今の新品に比べても安いぐらいの値段がついていることが多い。
それらの楽器が二束三文で楽器屋の店頭に並んでいるのを見かけると、自分の同級生が低く評価されているような気がして、なんだか少し腹が立ってきて、とは言っても楽器屋の店員を責めるわけにもいかず、ついつい買ってしまうということが時々ある。悲しいことなのか、喜ぶべきことなのか、私がよくお世話になっているギター屋さんは、私の同級生ぐらいの楽器の評価が極端に低いらしく、その店に行くと時々そういう楽器をとても安い値段で出している。どうか、もっと高い値段をつけてくれと何度かお願いしているのだが、相変わらず安い値段をつけるもんだから、よし、これは俺が面倒を見てやろうと思い買ったりしている。楽器屋も商売だから、売れなければしかたないので安い値段をつけているのかもしれないが、どうもけしからんことに、私の同級生には特に厳しいようだ。
楽器全般の話でいうと、FM音源搭載のデジタルシンセサイザーの名器ヤマハDX7(いわゆるキーボード)が発売されたのが1983年だ。デジタルシンセサイザーとは、アコースティック楽器やエレキギター、エレクトリックピアノ等の「生の楽器」からサンプリングし標本化した音源を任意に再生出力する楽器(ウィキペディア「サンプラー」欄より)で、要は録音されたサンプリング音源を鳴らす楽器である。
正確には、デジタル以前にもサンプリング音源の電子楽器は存在していて、シュトックハウゼンなんかは60年代からそれらを使って電子音楽を盛んに行なっていたのだけれども、そういう話はここでは割愛させてもらう。
DX7は一般人が買い求められるぐらいの価格帯のデジタルシンセサイザー第1号機と呼んでもいいのではないかな。電子ピアノ(現在一般的にはデジタルピアノと呼ばれている)の普及版の元祖でありマスターピースと呼んでもいい。DX7は、練習スタジオに置いてあるキーボードとして私の高校時代ぐらいまで定番だった。
何の話かというと、1980年頃を境にデジタル楽器が台頭してきたということだ。1980年頃はデジタル楽器がちょうど栄え始めてきた時代と言える。だから、ギターやらピアノといった弦なんかを弾いたり叩いたりして音を出すアコースティック楽器、または、それをピックアップで拾い電気信号に変換し、アンプで増幅するエレクトリック楽器というのがなんとなく時代遅れのような感覚になった時代が1980年頃なのである。アコースティックギターや、アコースティックピアノはもう古い、エレキギターやエレクトリックピアノももう古い、と思われ始めたのがこの時代なのである。
1990年代に『MTVアンプラグド』という番組が流行って、アコースティックサウンドが見直されるようになるまで、デジタル楽器が最新の楽器、「今ごろの楽器」として栄えた時代が10年ほど続く。『MTVアンプラグド』のブームに乗って、アコースティック楽器による音楽が見直されるとほぼ同時期に、ロックの世界ではレニークラヴィッツなんかがエレキギターやエレクトリックピアノ等の「レトロな」楽器を使い録音した音楽をリリースして、「デジタル楽器では出せない」サウンドがもてはやされるようになる。
そんなこともあって、1980年前後はエレキギター冬の時代なのである。
そのためなのかなんなのか、この頃のエレキギターとかは実際のところつくりが雑なのが多い。まあ、しっかり作ってある楽器もたくさんあるのだけれども。エレキギターやらなんやらを作っていた楽器メーカーは、デジタル楽器が手頃な値段で買える時代が到来したため、半ばヤケッパチになっていたんじゃないかと思えるフシもある。ヤケッパチの1980年。うん、覚えやすいな。
しかしながら、楽器屋としての視点から見ても、この時代のエレキギターも決して悪くはないと思っている。個性的な楽器が多くてむしろ良いのではないか。
エレキギターは1970年代の後半から重めの木材を採用しているモデルが増えている。これは、コストの問題や、木材の供給元の問題ももちろんあるのだろうけれども、時代が求めていたサウンドによるものなのではないかと思われる。例えば、日本ではAOR(というよりシティ・ポップ)とかフュージョンといった音楽が盛んだった時代背景もある。パッキパキでエフェクトのノリが良い楽器が求められていたとも考えられる。そのためには重めの木材を使ったほうがそういうサウンドを得ることができる。ギターに限らずともローズピアノをはじめとするエレクトリックピアノのサウンドも、よりエフェクトのノリが良く、ハッキリクッキリとした音がするものが好まれていたようだ。これはまあ、定説ではなく、私のレコードラックから聴こえる音楽からの推測なんだけれど。
個性的な楽器という意味では、1980年代初頭はギリギリ、アメリカの老舗ギターメーカーが楽器を「開発」していた年代である。「開発」というのは、その頃ぐらいまで、老舗のギターメーカーは「より優れた」楽器を作ろうとしていたということだ。後年、1980年代の中盤ぐらいから、それらの楽器メーカーはだんだんヴィンテージリイシュー(50年代・60年代の楽器の復刻版)に力を入れ始める。それに取って代わるかのように世界のエレキギター市場で新興メーカーや、日本製のブランドが台頭してくる。新興メーカーの楽器に個性がないというわけではない。むしろ、目新しさという側面からいうと新興メーカーの方が勝るのだけれども、その反面「何でもあり」という感じがしてしまう。「何でもあり」と楽器の個性というものは必ずしも合致しない。老舗のメーカーがその脈々と続く伝統と歴史の中から作り出したものこそ、目新しさにとどまらない楽器の個性として魅力を感じる。
だから、1980年前後に作られた楽器ももうそろそろ正当に評価してやってもらっても良いのではないかと、多少贔屓目ながら考えている。デジタル楽器の到来を目の当たりにしながら製造され、今に遺ってきた楽器たちなのであるのだから。歴戦の名器と呼んであげてももうそろそろ良いのではないか。いや、名器とまで呼ばなくても、厳しい環境で善戦してきたのだ。もう少し評価してもらっても良い。
何だか、1980年前後の楽器の評価の話をして、自分をねぎらってほしいというような下心が丸見えなのだけれど、私もあと30年ぐらいは頑張るつもりだから、同級生の楽器たちにもこれから日の目を浴びさせてほしい。
実際、私の手元にある同級生の楽器たちも、少しずつだけれどガタがきているのもある。一度、オーバーホールに出してやっても良いような気もする。腕時計と違って、エレキギターやRhodesピアノは狭いところに細かい部品がひしめいているわけでもなく、ガレー船のようではないので、一見優雅な時間を過ごしているように見えるかもしれない。腕時計の目から見ると、エレキギターなんかは、「アリとキリギリス」のキリギリスのように映っているかもしれない。けれども、そんなことはないのだ、エレキギターだって、Rhodesピアノだって、繊細で働き者なんだ。本来なら数年に一度はオーバーホールに出すべきものなんだから。
私の大先輩にあたる瀕死のElginを愛でていたら、知らぬ間に自分自身をねぎらうかたちになってしまった。
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