食べ納め(野田まりえ)

 今週中に子どもを産む予定となっている。

 予定と言っても、胎児の都合で出てくるタイミングが決まるので、本当に今週中に生まれるのかわからない。いつが予定日なのか、いつ生まれるべきなのか、胎児には何度も言い聞かせているが、おそらく理解していないだろう。胎児はまだ、カレンダーを見たことがないので、仕方ない。

 

 いつ生まれても良いという時期、つまり正産期に入ってから、私は「食べ納め」と称して食べ歩きをしている。乳児を抱えて入ることが難しいレストランやカフェに行き、食べたいものを思いっきり食べている。

 妊娠中には食べられるものにいろいろと制限があるし、薄味が推奨されているので、これまで外食は最小限にとどめてきた。妊娠中毒症、高血圧、糖尿病にならないよう、十分な栄養を限られたカロリーの中でとるように、食事にはいつも気を付けてきた。

 しかし、産後には産後の制限がある。乳児がいることによる行動制限だけでなく、授乳をするための食事制限である。

 妊娠中は、生もの、アルコール、カフェインなどが制限されている。生ものは、産後には食べられるようになるが、母乳育児をする場合には、アルコールとカフェインの制限は産後も続く。また、油物や甘い物も授乳中には控えたほうが良いとされている。

 出産後のことを考えるようになり、「授乳中は油物を食べられない」ということに気付いたとき、「とんかつを食べなくては!今すぐに!」と思った。次の日、とんかつを食べに行った。

 

 妊娠初期は、胎児が無事に育つことだけを考えていた。体に悪いとされるものを食べた後は、胎児に悪影響は無いだろうかと心配になり、ネット検索をしたり、医師に相談したりして、びくびくしながら暮らしていた。一般的には体に良いとされているハーブや薬味の中には、子宮を収縮させたり、ホルモンバランスに働きかけたりしてしまうため、妊婦には推奨されないものもある。バジルもパセリも避け、何がブレンドされているかわからないハーブティは飲まなかった。

 神経質だった。

 産後のことまで考える余裕はなかった。

 

 しかし、いつ産んでも良い週数まで来ると、ハーブ類については、摂取するのが怖くなくなった。妊娠初期や中期には「子宮を収縮させる」ということは、「流産につながる恐れがある」ということだが、正産期に入ってしまえば、胎児は外に出てくるべきものなので、子宮が収縮するのはむしろ良いことなのだ。もちろん、生ものは引き続き避けるべきなのだが、ハーブについて心配しなくて良くなっただけ、気が楽になった。

 また、一日中胎動を感じているので、お腹がモゾモゾ動いていれば、「あぁ、生きているな」と確認できる安心感がある。

 やっと、産後の生活まで考えた妊娠生活を送れるようになったのだ。

 そして、いままで我慢していた分、好きなものを食べたいという気持ちが出てきた。

 

 2週間前の妊婦健診の時に、「授乳中に食べられないから、いま食べておいたほうが良いという食品はありますか」と助産師に質問し、「妊娠中に控えるべきものは、基本的には授乳中もおすすめできるものではありません」と呆れられた。

 しかし私は、何が食べられて、何が食べられないのか、どうしても、きちんと、詳しく、知りたかった。妊娠中に食べるべきでないもののほとんどが授乳中にも推奨できるものでないとしても、1品でも2品でも、妊娠中に食べられて授乳中に食べられなくなるなら、どうしても知りたい。それが、私の大好物である可能性があるからだ。

 

 妊娠中に控えるべき食べ物一覧の中に「加熱していないナチュラルチーズ」が含まれていることを妊娠してから知り、とても大きなショックを受けた。知っていたら、妊娠前に思う存分食べていた。

 ナチュラルチーズが大好きなのだ。

 どうしてもナチュラルチーズを諦められなかった私は、イギリスのNHS(国民保健サービス)のHPに行き、本当にナチュラルチーズが避けるべき食品なのか調べた。チーズを日常的に摂取する国から、別の見解が得られるのではないかと思ったからだ。しかし、結果は同じで、妊婦はチーズを食べるときに加熱するべきであるとされていた。私の好きなカマンベールチーズなどのソフトチーズは、特に避けるべきであるとされていた。

 加熱すれば食べられるのだから、そんなに悲しむことはないと思うかもしれないが、好きなものを好きなように食べたいのだ。皮のパリッとしたバゲットにカマンベールチーズを乗せたり、ベーグルにドライフルーツとクリームチーズをはさんだり、トーストに冷蔵庫から出したての少し冷たいブルーチーズを塗ったりするのが好きなのだ。

 ナチュラルチーズを完全に諦められるまで時間がかかり、妊娠初期から中期にかけての数カ月、仕事の合間にチーズの画像検索などをして暮らしていた。

 妊娠中にチーズに取り憑かれるとは思っていなかった。

 授乳中に、こんな思いをしたくない。

 

 妊娠中よりも授乳中に制限が厳しいものについて、助産師に呆れられながらも熱心に質問し、インターネットでも調べると、油物、乳脂肪の多い物、甘い物は、乳腺のつまりにつながるので控えるべきであること、辛いものは母乳の味に影響するので避けるべきであること、妊娠中には300mg程度までOKだったカフェインは授乳中にはほぼ0にすることが望ましいことなどがわかった。

 妊娠・出産・子育ては、科学と迷信が入り混じった世界なので、助産師によって言うことが違ったり、ネットでもいろんな情報が出てきたりするが、よく言われていることを参考にすることにした。

 そして、私が「食べ納め」するべきは、揚げ物、洋菓子、辛い料理、カフェインであるという結論に至った。

 それからというもの、理由をつけては外出し、レストランやカフェに行っては、カレーや天丼を食べ、食後にケーキやドーナツを食べ、コーヒーを飲んでいる。


 いま、胎児の健康のためにベストを尽くしているかと聞かれると、完全にノーである。最低ラインは守っているが、ベストではない。

 妊娠する前は、妊娠したら「赤ちゃん最優先」の生活を送ろうと思っていた。優しい笑顔でお腹を撫で、食べるものにこだわり、安産のための運動やストレッチを行い、時間を見つけて赤ちゃんの服を手作りしたりする、丁寧な生活をしたいと思っていた。

 でも実際には、妊娠しても私には私の欲望があり、なんやかんやと理由をつけては自分の欲望を満たしている。

 でも、それでいいと思えるようになった。

 私の体は、私が摂取した栄養を優先的に胎児に与える仕組みになっているようなので、私が偏った食事をしていても、そのなかから一番必要なものを吸収して胎児は成長している。私が貧血になろうが、カルシウム不足になろうが、容赦なく奪っていく。

 

 きっと、生まれてからもそうなのだと思う。

 「お料理上手で、いつも笑顔の優しいお母さん」になろうとしても、きっとなれない。

 食いしん坊だが料理は下手で、気難しくてすぐに不機嫌になる。そのうえ、理屈っぽくて、頑固で、神経質なお母さんにしかなれないかもしれない。

 私は、初めて親の立場になって親子関係を構築するにあたり、その関係を良いものする最大限の努力をするつもりでいる。しかし、「理想の妊婦」になるつもりだったのにそうなれなかったように、「理想の母親」なるものを目指しても、そうなれない可能性が非常に高い。

 私は私なりに努力するが、与えられるものもあれば、与えられないものもある。

 生まれてくる子供には、本当に申し訳ないと思っている。

 でもきっと、それで大丈夫なのだ。私は私のままで母親になり、生まれた子供は、そんな私から勝手に何かを学んで成長していくのではないかと思う。いま、勝手に私の栄養を盗んで暮らしているように。

 

 最近は、明日は何を食べようかな、と考えながら眠る。

 もういつ陣痛が来るかわからないし、素敵なカフェに行ってケーキとコーヒーを頼みたい。

 生クリームには、カルシウムが入っているし、スポンジに使われている卵には、ビタミンもタンパク質も入っている。必要だったら、勝手に吸収してください。不要な分は、私の皮下脂肪になるだろうけど、それでいいのだ。

 

野田まりえ

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