映画の話(ヨシオ カサヤカ)

 8月後半に、「クレイジー・リッチ・アジアンズ」を観た。それ以来、起きている時間の7割は、映画の挿入歌である、中国語版の「マテリアル・ガール」と「イエロー」が脳内でBGMとして再生され続けている。音楽とその場面が最高にマッチしていて素晴らしく、大好きになってしまったからだ。 

 同作は、実に25年ぶりにつくられた、主要キャストと制作陣がアジア系で占められたハリウッド映画である。マイノリティが主演の映画は興行的に成功しにくいという通説を裏切り、報道によればラブコメ映画としては過去数年間で最大のヒットとなった。

 映画を観た数日後、友人と会う機会があったので「ところで、クレイジー・リッチ・アジアンズ観た?」と聞くと、「友達と見に行った」「私は姉と」「私は一人で」と、三者三様、もう観たという回答だった。映画を薦めるつもりだった私は少し拍子抜けしつつ、みんな観てるんだ……と感慨深かった。 


 ここで、話はそれより1ヶ月ほど前に観た映画に飛ぶ。C・イーストウッド監督・主演の映画「グラン・トリノ」(2008)である。

 最初に観たのは8〜9年ほど前だった。今回観たのは、7月の夜、映画でも観ようとAmazonプライムの配信リストを物色していた時にたまたま見つけたからだ。 


 配給会社の公式サイトによる日本語版のストーリー紹介は、以下の通りだ。 

妻に先立たれ、一人暮らしの頑固な老人ウォルト。人に心を許さず、無礼な若者たちを罵り、自宅の芝生に一歩でも侵入されれば、ライフルを突きつける。そんな彼に、息子たちも寄り付こうとしない。学校にも行かず、仕事もなく、自分の進むべき道が分からない少年タオ。彼には手本となる父親がいない。二人は隣同士だが、挨拶を交わすことすらなかった。ある日、ウォルトが何より大切にしているヴィンテージ・カー<グラン・トリノ>を、タオが盗もうとするまでは――。 ウォルトがタオの謝罪を受け入れたときから、二人の不思議な関係が始まる。ウォルトから与えられる労働で、男としての自信を得るタオ。タオを一人前にする目標に喜びを見出すウォルト。 しかし、タオは愚かな争いから、家族と共に命の危険にさらされる。彼の未来を守るため、最後にウォルトがつけた決着とは――? 


 上記で説明されていない設定を補足する。作品の舞台はデトロイト近郊で、ウォルトは朝鮮戦争に従軍し、その後メカニックとして自動車会社のフォードに定年まで勤めたポーランド系の白人男性である。少年タオは、モン族(ミャンマーの少数民族”Mon”ではなく、タイ、ラオス、カンボジア、中国に住む山岳民族の”Hmong”)の難民で、姉、母、祖母と暮らしている。主人公が住むエリアには、モン族をはじめとする難民やヒスパニック系の移民が近年増え始め、人種差別的な主人公は近隣の様子が変わっていくのを苦々しく思っている。なお、タオが主人公の車を盗もうとしたのは、タオの従兄弟を含む、モン族の不良少年たちに半ば強制されてのことである。 


 この作品を初めて観た時はおおいに感動し、今は無きSNS「mixi」の日記に「家族でない赤の他人と、家族以上につながることもあるんだなあと思った。」という感想を書いた記憶がある。今回も、既に結末を知っていながらも、面白くてついつい最後まで観てしまった。 ただ、10年前と全く同じように感動したかというと、かなり違った。かつては気にならなかった一部の描写に違和感を持つようになっていたのだ。 

 それに最初に気づいたのは、皿洗いのシーンである。映画の序盤、主人公のタオが、劇中で「モン族の文化では女性の仕事」とみなされる皿洗いや庭いじりを一人で黙々とやっている場面がある。こうした描写は、おとなしく男性的でなかったタオが、主人公との交流を通して、自分に自信を持ちより男らしく成長していく、という展開を強調する役割を果たしている。

 初めて観た時、この演出に何ら疑問を持つことはなかった。しかし今回は、彼が皿を洗い草をむしる姿を観た瞬間に「あれ、この主人公はこのままで完璧じゃないか……」と思い、ここからドラマを発展させる必然性に疑問に感じた。結婚し、皿洗いを巡って日々配偶者と闘争と和解を繰り返してきた現在の自分からすると、10代にして家事を進んでこなす主人公には尊さしか感じない。彼は作中で「ロールモデルがいない」とされているが、映画の序盤からもう十分、よくできた息子である。そもそも、ロールモデルの不在を問題とするなら、ギャングである従兄弟たちのほうが、その点ではよほど深刻である。 

 もう一つ、タオの姉スーについて。以前に観た時はウォルトとタオのドラマに感動するばかりで、彼女のキャラクターについては何も気に留めなかった。しかし、改めて見ると、彼女には少し不自然なところがある。スーは、おとなしい弟と対照的に、口達者で物怖じしない少女として描写されているが、実は自分の日常や趣味嗜好について、全編通してほぼ何も語っていない。彼女が口達者なのは、あくまで「モン族のことを知らないウォルトおよび観客に、モン族とは何かをユーモアを踏まえてわかりやすく説明をする」「タオの状況を説明する」時だけである。「(モン族の)女の子は大学に行くけど、男子は刑務所に行くの」と、彼女がウォルトに語るシーンがある。米国に住むモン族という大きな話をする一方で、彼女自身はどの大学の何学部を目指しているのか、高校生活を楽しんでいるのか、趣味は何か、バイトはしているのか……そうした点は劇中で全く語られない。

 加えて、主人公ウォルトに対する感情が常に一定しているのが不思議に思えた。ウォルトが彼女のお節介さに閉口する、という描写があるのに対し、スーの、彼に対するフレンドリーな態度は全編を通して変わらない。自分達の文化についてあまり理解しようともしない隣人に苛立つこともなく、むしろ適所で説明を入れる役割を果たし続ける。彼が、スーとタオの友人であるモン族の少女ユアの名前を正しく理解せず、2回会ってもなお「ヤムヤム」と間違った名前で呼び続けていてもである。 

 映画を二度目に観たときのこうした違和感について、私はなんとなく答え合わせをするような気持ちで、作品に対する、プロや一般のレビューがまとめられたサイトを見てみた。米国内では公開時から上記の点についての疑問があげられており、単に私が10年遅れでやっと気がついただけなのかもしれないと思ったのだ。主要紙に掲載されたレビューを眺めてみると、俳優生活最後のキャリアとしてイーストウッドが主演した役柄についての好意的な評価が主であった。登場人物の造形への疑問を発信していたのは、こうしたメジャーな雑誌や新聞ではなく、モン族の当事者や研究者であった。興味深いのは、最も強く批判の声を上げているのが、タオを演じた俳優本人だったことだ。 


 モン系米国人のビー・ヴァンがこの作品に出たのは16歳の時で、当時は演技未経験であった。2010年の「Hmong Studies Journal」にて、彼は、モン族を長年研究している人類学者を聴き手として、作品への思いを振り返っている。記事によると、ヴァンは当初からタオのキャラクターに疑問を感じる部分があったが、作品を作り上げる中でアイディアを出し、より深みのある役柄へと改善できると望みを抱いていた。しかし、彼によれば、結果的に制作現場で彼の声が反映されることはほぼなかった。この経験を通し、彼はハリウッド映画におけるアジア系アメリカ人の位置づけへの問題意識を強く持つようになったという。彼の言葉の中で、特に印象に残った部分を、拙い意訳ではあるが紹介したい。(以下、太字部分は原典ではなく私の強調である。)  


 同記事6ページ目

ーーこの作品において、あなたはモン族を演じたと思いますか? だとしたら、どの場面においてモン族のアイデンティティを役柄に込めることができたと思いますか? 

ヴァン:この作品には、モン族に関する描写が確かに存在します。ただ、僕は、自分の役柄に特にモン族としてのアイデンティティを感じませんでした。むしろ、僕に求められていたのは、従属的な、一般的なアジア人のステレオタイプを演じることだと感じました。そもそも、脚本上、僕達の役柄がモン族である必然性もなかったと思います。他のアジア系マイノリティでも良かったのです。また、主人公すら僕達を、彼が朝鮮戦争で戦ったコリアン達と混同しています。だから、モン族の文化やアイデンティティがこの作品に強い関連性を持っているようには見えないのです。  

ーーこの作品に対する周りからの反応についてはどう感じましたか? 

ヴァン:そうですね、中年の白人男性は、この作品で好きな部分は主人公とタオの交流だと、なぜならそれがとても真実味があるから、と僕に言いました。多くの人がこのように言いました。  
 ただ、誰にとっての「真実味」なのでしょうか?白人が唯一のヒーローである世界に住んでる人たちにとっては「真実味」があるでしょう。あるいは、この映画がモン族の文化に関するドキュメンタリーだと思っている人たちにとっては。アジア系の人たちでさえ、そう思ってる人は多くいますよ。そして、彼らは、この作品を見て、僕らの文化を学んだというのです。一方、僕らモン族の多くは、この作品で描かれていることは真実ではないと思っています。「グラン・トリノ」は観る人の主観によって大きく変わる映画だと思うんです。皆それぞれ、違うことを感じています。 


 さらに、7ページ目で彼は、彼は男性性について語る。ヴァンは、映画ではタオは主人公から「白人男性が考える男性性」を押し付けられているのに過ぎないことを問題視している。作品の中で、タオが「優しいが男性性を欠いている」ことの象徴として描かれる行為、たとえば近隣の老婦人をさりげなく助けたり、皿洗いや庭仕事をやっていることは、ヴァン自身が育ったモン族の文化の中では男性性と全く矛盾することではない、むしろ年長者やパートナーを助けることは男性性の重要な一部だという。 


ヴァン:(家事をするのは)去勢されているわけでも、"女の仕事をしている”わけでもなく、パートナーへの尊敬と気遣いを見せることだと思うんです。 <中略> 家事をよく行う男性は、女性にとって、"より女性的"でなわけではなく、“より好ましい“だけです。


  また、「女子は大学に、男子は刑務所に」というスーのセリフについて、彼は疑問を呈する。 


ヴァン:(このセリフは)学校に通っているモン族の男性達を不可視にしてしまうものです。

ーーこのセリフをスーが言ってることに対して、どう思いますか? 

ヴァン:問題があると思います。多くの米国人が、モン族さえも、彼女のセリフは現実を反映していると思っています。それが僕にはとても腹立たしいです。モン族の少女がそれを言っているということで、このセリフが人種差別主義的ではない、という印象を与えていますが、実際は白人の脚本家が彼女の役柄を作り出し、彼女に言わせているんです。観客が、このことについて意識的であってくれたらと思いますが……。


 インターネットでの情報によれば、彼は「グラン・トリノ」以降、ハリウッドのメジャー作品には出演していない。大学で演技を専攻した後は、ショートフィルムや舞台作品に出演する傍ら、アジア系アメリカ人の表象に関する啓蒙活動をしている。 

 

 7月に「グラン・トリノ」観て以降、別の世界線のタオとスーの姿について考えている。白人が唯一のヒーローである世界、ではない場所にいる彼らの姿である。8月に「クレイジー・リッチ・アジアンズ」を観て、こうした映画も近い将来出てくるはずだという漠然とした希望を持った。言うまでもなくこの作品は「グラン・トリノ」となんの関係もないが、先述でヴァンが述べていた「実際は白人の脚本家が彼女の役柄を作り出し、彼女に言わせている」世界とは対照的だからだ。 


 そこでは、彼らがヒーローになるかもしれないし、悪役になるかもしれないし、そもそもヒーロー自体が存在しない場所で生きているかもしれない。毎年ハリウッドで新たな青春映画・TVドラマが作られ、無数のティーンエイジャーの人生がそこで生み出されているように、彼らが生きうる世界も無数にあるはずだ。 

 「スパイダーマン」の主人公のように、オタクっぽいけど成績優秀かもしれない。「ラスト・サマー」の主人公達のように、プロムの夜に人を轢き殺したせいで殺人鬼に狙われるかもしれない。「レディ・バード」のヒロインのように、地元が嫌いで、演劇が好きで、東海岸の大学に通うことを夢見ているかもしれない。「ドープ」の主人公マルコムのように友達とバンド活動に熱を入れているかもしれない。「リトル・ミス・サンシャイン」のお兄ちゃんのように、ニーチェに傾倒していてるかもしれない。あるいは、「ラブ、サイモン」の登場人物の一人リアのように、BLを読むのが好きで漫画を描くのが得意かもしれない。さらに、映画の外の現実を見れば、語られてない世界や人生はまだ無限にある。  


 まだ撮られていない映画のことを考えて、私は今からわくわくしている。

    

ヨシオ カサヤカ

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