「祈りの家」★追記あり★(ヨシオ カサヤカ)

〈5月1日 追記〉

  記事を書いてから約2週間後、文中にリンクを貼っていたKhaled Beydoun氏 (https://twitter.com/khaledbeydoun)のTwitterが削除されていることに気づいた。経緯を調べると、彼が4月初めにインスタグラム上で行ったキャンペーンが遺族をはじめ多くの人々から批判を呼び、本人が自らアカウントを削除したのだった。この一連の流れについては、下記の記事が詳しい。

 また、この“炎上”のあと、「彼が行っていたTwitterでの被害者に関する投稿自体、情報が正確でないものや、他のジャーナリストの文章を剽窃したものがあった」という批判も一部で出ている。ただ、どの部分が誤りや剽窃かを検証した記事などは現時点では見つけることができなかった。 

 アフリカ系アメリカ人ムスリムでライターのVanessa Taylorは、この出来事について、同氏のように“知識人”としての権威を持った一部の“セレブ”ムスリムが、ムスリム社会の中での少数派から結果的に声を奪っていることの顕著な一例だと述べている。つまり、遺族を訪問するNZ旅行を「賞品」としてSNSでキャンペーンを企画した行為だけでなく、前段階の、彼が事件直後から犠牲者について  #49Livesという自身のスレッドで紹介していたこと自体、NZのムスリムコミュニティに属していない非当事者の人間が勝手に被害者のことを要約して世界に向けて語る搾取行為だった、と論じているのだ。

 この観方に基づけば、私もまた、彼の発信したものを受け取り、何らかの形で拡散した世界中のネットユーザーのうちの一人として、搾取行為の共犯者である。 

 一方で、事件発生当時、彼の投稿を目にしなければ、私はこの事件の被害者の一人ひとりのことを知ろうとしなかっただろうとも思う。私は、他者の暮らしや視点を知り、それをまた別の誰かに伝えることが、どこからその当事者への搾取になるのか、ボーダーラインがいまだにわからない。学生のころ、少し足を突っ込んだ文化人類学は、「他者を表象することに潜む危険性」を考える学問という一面があった。人類学の事例や、世間での最近のいろいろな例を見てきて、これは明らかにだめだろう、というものの判断は、なんとなくつく。ただ、じゃあいつどんなときもお前は正しく判断しているのか、絶対に世界中の誰のことも「感動ポルノ」として消費していないのか、と聞かれたら、答えにつまる。 

 答えにつまった状態のままであることを記録しておきたいので、3月に投稿した下記の文章も、内容は変更せずそのまま保存する。上記の経緯で引用リンクが既に存在しない箇所等には、必要に応じて補足をつけた。 

 <追記 了> 





 先日、夜寝る前にインターネットを見ていたら”Dedly Attack in NZ Mosques" という見出しが目に入った。その時の私は特に記事の詳細を読むこともなく、眠りについてしまった。どのサイトやSNSで第一報を見たのかすら実はきちんと記憶がない。”Deadly Attack”と見出しがつく事件がしょっちゅう起きているため(昨年だけで米国では銃乱射事件300件以上発生している)どこか感覚が麻痺していたのだと思う。


 その反面、翌朝のことはしっかり覚えている。テレビをつけると、ニュージーランドのモスクで金曜礼拝に来ていた人々が銃撃され49名が死亡(追記:16日現在、病院で1人が死亡し50名となった)、48名が重傷という報道がされていた。前夜に想像していた以上の被害者の数にショックを受けた。また、犯人は反移民感情を持った白人至上主義者であることを同じニュースで知った。自分が今インターネットで詳細な情報を得たところで、事件をなかったことにできるわけでも、犠牲者が生き返るわけでもない。しかも事件の詳細を知れば知るほど暗い気持ちになるだけだとわかっていながら、何が起こったのか知りたいという気持ちに勝てずネットを開いていた。


 犯人は豪州出身の男性で自分の犯行を全世界に配信していた、犯行声明と思しき文書では自らを「普通の白人」だと名乗っていた、という情報はすぐに出てくる。典型的な白人至上主義のテロリストである。被害者について初めて知ったのは、Twitterのタイムラインに流れてきた以下のツイートを通してだった。(★元投稿は既に存在していない。)

”Daoud Nabi, 71, was the first of the 49 #ChristChurch victims to be identified.
He stood at the door, ready to pray, and welcomed the terrorist inside, "come in brother" were his last words.The grandfather died trying to save someone else from a bullet.”
”71歳のDaoud Nabiはクライストチャーチの事件の49人の死者のうち、最初に確認された犠牲者である。彼はドアの前にたち、礼拝の準備をしながら、テロリストを出迎えた。「ようこそ、兄弟」が彼がの最後の言葉だった。彼は他の人々を銃弾から守ろうとして亡くなった”

 

 もちろん私はこの男性のことを知らない。このツイートを書いた人物のことも知らない。スマートフォンの画面に表示されたこの写真の老人が本当に犠牲者なのか、ここに描かれた彼の最後の瞬間は事実なのか、このツイート主が創作したのではないかと疑おうと思えばいくらでも疑える。このように、あえて脳内の防御反応として一片の猜疑心でも持たないと、重すぎて呑み込みがたい内容だった。


 その一方で、彼がモスクのドアを開け、見知らぬ白人男性に対して、笑顔で挨拶をする様子はありありと頭に浮かんだ。それが「祈りの家」にいる人々の所作だな、と、容易に想像できたのだ。


 米国では、人々が礼拝を行う場所をHouse of Worshipと表現するのをよく耳にする。直訳すると、礼拝/崇拝/祈りの家、になる。教会、モスク、寺院、といった色合いをつけずにどんな宗教についても表現できる便利な単語ゆえ、登場頻度が高いのかもしれない。私は特定の宗教への信仰もなく、いわゆるスピリチュアルなものへの関心も薄いが、この言葉も、そして実際に人々がお祈りをしているこうした場所を(誰かに強制的に連れて行かれない限り)訪れることも好きだ。その動機は主に2種類ある。一つは、「新しもの見たさ」「訪れると自分の存在を全肯定してもらる気持ちよさ」への俗な欲望である。もうひとつは、うまく言葉が見つからないが、人が祈っている空間になぜだかただ惹かれるのだ。自分が永久に持ちえないものだからかもしれない。これまで、大学の卒論のネタ探しとかこつけて、米軍基地の近くの黒人教会の日曜礼拝を見学させてもらったり、都心のウクライナ正教会のミサに行ったり、クリスチャンに帰依した友人のいるプロテスタント教会に行ったりした。もちろん旅先でもモスクや教会を訪れるのが好きだったし、ミャンマーにいた頃も近所で見つけた中国寺院に入ってみたり、キリスト教徒の多い地域に出張したときは、現地のスタッフが通っている教会に日曜に連れて行ってもらったりもした。先にも書いたように、私のモチベーションは、信仰を求めて、というものではなく限りなく不純だ。そのため、訪れた各地の「祈りの家」にいる人々の、得体のしれない訪問者への優しさにいつも圧倒された。宗教や地域に関係なく、どこでも彼らは突如現れた私をとりあえず迎え入れてくれた。私が何者かを聞かない。私の職業、年収、私が信者になるか否か、を聞かない。私がどんな動機を持って訪れたのかをスクリーニングしようとしない。今日そこに来た、今そこに座っている、という事実をとりあえずただ祝福してくれる。


 そうした経験から、クライストチャーチのDaoud Nabiも、彼らと同じように、何も聞かず、ただ今日誰かがそこに来たことを祝福し扉を開けたのだろうと、確信を持っていえる。あの金曜、仮に私が扉の前に立っていたとしても、テロリストにしたのと同じように、「ようこそ」と笑顔を浮かべドアを開けただろう。


 Daoud Nabiについての件のツイートを目にしたあと、しばらくしてツイート主でデトロイト在住の法学者Khaled A Beydoun氏(★アカウントは削除されている。)による「アル・ジャジーラ」への寄稿文を見つけた(記事全文はこちら)。この文章で、彼は、なぜ犠牲者一人ひとりのプロフィールを伝えるツイートを始めたのか、その意図を解説している。同氏は、「私はテロリストの名前を知らないし、知ろうとも思わない。私は、犠牲者の名前と彼らの人生の物語を記憶し、祝福したい。40人全員を。ともに記憶しよう。」との呼びかけとともに、#49Lives というハッシュタグをつけ、事件の被害者たちの情報をツイートしはじめた。


 それは、犠牲者ではなく、犯人の思想や生い立ちを追いかける従来のマスメデイアやネットニュースの語り口では、注目を集めたかった犯人の願望を叶えることになってしまう、との危機感からだった。また、個々人のストーリーを語らないかぎり、イスラム教徒は、よく押し付けられがちな「テロリスト」としてのステレオタイプであれ、犠牲者としてであれ、顔や名前のない、単一な集団として描かれ続け、それがさらなるイスラムフォビアにつながってしまう、という思いも抱いている。


 その文章を読んでから、同氏の作った#49Livesのスレッドを追っていた。1ポストに一人のプロフィールが掲載されている。Twitterの文字制限上、そこに載っている情報はかなり要約されたものだ。名前、出身地、職業、家族、の主に4点である。それでも、たったそれだけの情報と写真があるだけで、彼らは犠牲者49名、という新聞やテレビの中の数字から、顔や名前のある一人の人間に戻っていく。


★アカウント削除によりこれらの投稿も現在存在しない。これに替えて、犠牲者の生前の情報を比較的詳細に述べていたニュース記事を掲載する。


(※続きは以下のリンクから)



ヨシオ カサヤカ


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