初めての海外(や)

 先日、職場近くの「奥野かるた店」の前を通りかかったところ、蔵出し、ということで、倉庫の奥の方に入っていたと思われる、古いかるた(というのもかるた専門店なのだ)と、「平成」と書かれた人生ゲームとが、店頭で割引された値札がついて並んでいた。

 そこに「こんなこいるかな」「ふたりはなかよし グーとスー」を見つけて、私は、はっきりと自我と記憶がないその時分に、それらのキャラクターに親しんでいたこと、それも、最初は「こんなこいるかな」で、それから、かわりのものとして「ふたりはなかよし」が始まった、というおぼろげな記憶などが、実感として〈ふっ〉とよみがえり、(しょっちゅう飲みすぎて記憶をなくしている今日このごろに対しては感じないのに)自分の知らない自分――の強烈な存在を感じて怖かった。その間、およそ5秒ぐらいの出来事である。

 記憶がなくても、私の中のわずかな部分は「こんなこいるかな」と「ふたりはなかよし グーとスー」の影響を受けて、もしくはその価値観を引き継いで生きてきたのだ。それと比べると記憶がもうすこしは鮮明だけれども、小学生のころ、私は夕方の海外ドラマにひたりきっていて、洗脳され、自分はアメリカの高校に行って、プロムに行くんだ――と強烈に思い込んでいた。

 今でもNHKではニコロデオン系列の子ども向けドラマを放送しているようだけれども、私の小さなときは(そして今も子どもに近いのだが)、有名どころではフルハウス、他にも恐竜家族、ボーイミーツワールド、サブリナ、チャームド、等々が毎夜放送され、ほぼすべてを見ていた。中でもNHKで放送されていた「名犬ラッシー」に出てくる、主人公のカナダ人少年、Corey Sevierには心底惚れてしまい、当時、家に導入されたばかりのWindows98のダイアルアップ回線で住所を調べ、「エアメールの書き方」というような本を見ながらHelloというような手紙を送った気がする。

 私は親に頼んで英語の通信教育なども契約したが、結局ひと言もわからぬままに中学校に突入した。しかし「あと何年かしたらアメリカに行かねばならない」と思い込んでいる。強迫観念のようにアメリカ、アメリカ、と思い込んだ(かつ小学校6年生のときに「スターウォーズ ファントムメナス」を見て、私はハリウッドに行って映画監督になるんだ、そのためにはUCLAに行くんだ、と宿命を感じていた)私は、とりあえず、中学校にチラシの置いてあった県の教育委員会共催のアメリカホームステイに申し込むことにした。資金は、子どもの時からのお年玉貯金である。

 私の友人はもう知っているけれども、私はあんなに焼き鳥・フライドチキン・チキンカレーが大好物であるのに、生身の鳥が恐ろしい。今でも動物園の鳥の展示を避けてしまうが、当時は、通学路にカラスがいるからと学校に行けなかったぐらい怖かった。ホームステイの申請書を書きながら、アレルギーのところに「鳥」と書いた。それほどに鳥がいやだったからだ。

 ついに夏休みがやってきた。県内の中学生10人ほどを引率するホームステイ企画であったので、駅から同行者に連れられて、新幹線に乗って、成田エクスプレスに乗り換え(そしてこの旅が、私が成田エクスプレスに乗った最後である)そこからJALに乗る(そしてこの旅が、私がJALに乗った最後である)。飛行機に乗ると、私は呼び出され、実は申請書の見落としで、事前に住所等を通告されたホストファミリーのところにはペットの鳥がいるという。そこで私は急に、別のホストファミリーのところに滞在することになった。

 もう全く連絡を取っていないのだが、ホストファミリーはメキシコからの移民であって、私の超初歩英語に対し、お母さんは同じような英語でとてもやさしく接してくれた。この旅で私が知ったのは、スターバックス、皮ごと食べられる緑のブドウ、ァハンという相づち、ウォルマート、ポリタンクに入ったオレンジジュースと牛乳、シュレック、冷凍のパンケーキ、ニコロデオンとカートゥーンネットワーク、朝にシャワーを浴びること、シャワーの最中に音楽を聴くこと、ポンチ、緑のケチャップ、長くて酸っぱい粉のついたグミ、トラベラーズチェックのつかい方、シャラップは命令語であること、巨大なソファー、電線に引っかからない空はとても広いこと、REMの「Imitation of Life」、アメリカにも砂漠があること、などである。


 以下の話を、もう以前に書いたかもしれない。ある夜、隣の家にも同じホームステイに来ている日本人がいたので、その子たちとその一家の姉弟、自分のホストブラザーと一緒に、外で、芝生の上に腰を下ろして、何かの話をしていた。毎日英語の教室に通っていても、それはたった数日のことで、しかもそれ以前は学校では過去形さえ習ったか怪しい。そのような状態で何を話していたか思い出せないのだけれど、突然その瞬間は訪れた。というのも、隣に住む年下のアメリカ人の男の子が話している英語が、いきなり意味として、日本語のようなもの、で聞こえてきたのだ。これは強烈な体験で、それから英語が(比較的)話せ、聞き取れるようになった。

 ドイツに留学した時も、最初はあまりに言葉ができず、一番下のクラスに入れられそうになった(そこは持ち前の強気で「私はできるんです!」と下から2番目のクラスにしてもらった)が、それでも私たち初心者クラスの仲間たちには希望があった。というのも、都市伝説のように、こんなことが信じられていたのである。私たちは、あるときにドイツ語で夢を見るようになるよ、そうしたらあっという間に話せるようになる、ということをどこからともなく聞きつけ、そしてその瞬間に望みをかけていた。

 私にはやってこない、と、それは初潮を待つ小学生のような気持であったのかもしれないけれども、ある日、ドイツ語で夢を見る瞬間は1か月ほどすると確かにやってきて、確かにその頃から、他人がしゃべる言葉が聞き取れるようになったのである。そしてやはり、ドイツ語をドイツ語として意識せずとも、意味がストンと頭の中に入る感覚が訪れるようになった。

 あの強烈な夏の夜の記憶。あの瞬間がなければ、私は今では慣れ親しんだこのテキトー英語を話せるようにならなかったのだろうか。それともあの瞬間を契機にして、自身のイマジナリーな世界の中で独特の解釈を重ねているにすぎないのか、真相はわからない。アメリカで知ることになった新しい事物のほとんどは、その後日本でも普通に見られる光景になった(ドイツでたまに食べていたロマネスコさえ、スーパーで売られている現代東京である)。けれども、強烈な記憶として残っている、あの、英語が日本語のようなものに聞こえた瞬間の手ごたえは、日本で簡単に手に入るようにはならないだろう。初めての海外、アメリカで、私が得たものは、そんな新しい感覚への確かな手触りであった。

(や)


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