Bye-bye, Mrs. Busch(Ryoshiro Sasaki)


 高校時代を2年弱オーストラリアで過ごした。オーストラリアの東海岸のブリスベンとゴールドコーストの間のBethaniaという街に住んでいた。ホームステイだった。高校はそこから車で30分ぐらいのYatalaというところにあった。 


 オーストラリアでは16歳から自動車の運転ができるのだが(今もそうなのかは知らないが)免許を持たない私は、ホストファミリーの家から鉄道のBethania駅まで歩き、Beenleighという街まで鉄道に乗り、Beenleighからはバスで高校に通っていた。 


 高校の担任の先生はMrs. Buschという40代半ばのおばさんで、敬虔なカソリックの、真面目で、優しい人だった。Mrs. Buschの指導科目は英語とChristian Perspectives(聖書を読んだり、キリスト教系のゲストスピーカーの話を聞いたりする授業)だった。 


 日本の高校で落ちこぼれだった私は、英語が全くダメで、三人称単数現在形の動詞の末尾に「s」をつけるという中学1年生ぐらいで習う文法すらよくわかっていなかった。そのため、オーストラリアでは言葉で苦労した。初めのひと月ぐらいは、「腹が減った」と「トイレはどこですか」と「ありがとう」くらいしか話せなかった。英語が全くダメだったのに、オーストラリアの高校に通うことにしたのは、日本の高校が大嫌いだったからだ。日本の高校のどこがそんなに嫌いだったのか、よくは覚えていない。とにかく、学校の勉強には全然興味がなかったし、帰宅部だったので、友人もそれほど多くはなかったし、どちらかというと友人といるよりも独りで街中のギター屋を巡っている時間の方が好きだった。そんなことだから、オーストラリアでも3ヶ月以上、高校の授業にはほとんどついていくことができなかったし、初めは友人もほとんどできなかった。 


 オーストラリアの高校の英語の授業では、シェークスピアを読んだり、オーストラリアの詩人Banjo Patersonを読んだり、所謂英語の古典の基礎みたいなこと を習った。そうでないときは、履歴書の書き方、採用面接の申し込みの手紙の書き方なんかを習ったりした。それで、実際にアルバイトの面接を受けてパートタイムで働いてみる、という宿題が出ることもあった。就労ビザを持たない私は、ホストファミリーの仕事の手伝いをしてお茶を濁したりしていたが、やはり英語の時間は大の苦手で、広い教室でしばしば独り取り残されていた。オーストラリアに暮らして2ヶ月が経とうとしていても、宿題もろくにこなせていなかった。 


 そんな私をみて哀れに思ったのか、帰りの点呼を後にしてギターケースを担ぎ教室を出ていく私をMrs. Buschは呼びとめた。 


  リョーシロー、今日はどんな一日だった? 

  あら、あなた、ギターを弾くの? どんなギターを持っているの? 

  私も、ギターを弾くの。旦那はFMのDJをやっているのよ。 

  フェンダーストラトキャスターかしら、それ? 


 私が聞き取れるぐらいのスピードに合わせて話しかけてくれた。私は、この国に来てからというもの、ホストファミリー以外ほとんど人とは話せなかったけれども、彼女がその時何と話しかけてきたかは、すぐにわかった。 


  私はギターを持っています。

  これは、安物のアコースティックギターです。

  これでロックを弾きます。 


とたどたどしく答え、 


  フェンダーストラトキャスター、好きです。 


と付け加えた。

 自分でも驚くほど片言の英語だったので、彼女はにこりと笑い、話を続けた。 


  リョーシロー、あなたは英語の授業でトラブルを抱えているようね。

  月曜の放課後に私のオフィスにいらっしゃい。

  他にもトラブルを抱えている人たちと一緒に課外学習で教えてあげる。 


 それは、うれしい提案だったけれど、高校の帰りにも私はバスに乗らなければいけなかった。そのバスは、夕方決まった時間に一本しかなかった。それに乗り遅れると、家には帰れない。 

 彼女は、私のホストファミリーに電話をかけてくれ、事情を説明し、月曜日は車で迎えに来てもらえるよう掛け合ってくれた。 

 それから、その年が終わる12月まで、私は毎週月曜日の放課後彼女のオフィスへ行き、同じく落ちこぼれのスコットと二人で、シェークスピアを読んだり、短い演劇の台本を書いたりした。 

 スコットはオーストラリア生まれの、生粋のオーストラリア人なのだが、私同様英語の授業が苦手らしかった。日本の高校で私が担っていた立場を、こちらの高校では彼が担っているようだった。


  I’m Scott, but, everybody calls me Doofus. ‘Couse I’m slow. 


というのが、彼のおきまりの自己紹介だった。 


 彼と一緒に課外で英語を教えてもらうようになりひと月もしないうちに、私は日常生活に不自由を感じることも少なくなり、学校の授業の方もなんとかついていくことができるようになり、高校生活にも少しずつ馴染んできた。バンドでギターを弾き、友人もできた。 

 他にも、もっとギターが上手い連中もいたけれども、ろくすっぽ言葉もしゃべれない日本人がギターを盛んに弾いているというところを汲んでくれたのか、全校朝会のクロージングアクトでギターを弾かせてもらったりもした。当時の私は、Johnny WinterとVentures(古いな〜)にはまっていたので、Venturesのヒットメドレーをドラムと2人で弾いた。メドレーの終わりにJohnny Winterへの敬愛の念を込めて、彼のライブレコードの最後に入っている”Johnny B. Goode”を無理やり繋げて弾いたのだが、ギターのボリュームをフルアップにしたもんだから、ミッション系の高校の静かな朝会のクロージングにはちょっと刺激が強すぎたかもしれない。 

 リハーサルなしのぶっつけ本番で臨んだのだが、ドラムもなかなかの腕前の人を用意してくれたらしく、ソロのブレイクのところでは、ぴったりとブレイクを合わせてくれ、エンディングもうまくいった。さすがはJohnny Winterの書いたソロだけあって、よくできていると感心したもんだった。 


 朝会が終わった後、10分ほどの休み時間があり、高校の付属の中学の連中や、小学校の連中が何人か私に話しかけてきた。 


  お前、日本人。あのフェンダーのストラトキャスターはお前のものか? 

  あの、最後の騒がしいロックンロールは、アドリブなのか? 

  あの、頭を左右に振るのは日本式の奏法なのか? 


 など、いくつかの質問を受け、 


  あの、ストラトキャスターは私のではありません。 

  Cammilleri先生に貸してもらいました。 

  No, it’s not my ad-lib. It’s from Johnny Winter album! 

  あれは、日本式です。 


などと、答えているうちに、「ああ俺は、これからここでなんとかやっていけそうだな」と思うに至った。本当は、もっと謙虚でなくてはいけないのだろうが、謙虚という言葉を知らなかった私は、何でも自分独りで成し遂げたことのような気分になった。 

 そんなこともあり、何とか1年目のハイスクール生活を乗り切り、12月になった。 


 12月、オーストラリアは真夏である。 

 学期の最後の日の放課後、私は図書館にいた。音楽の先生から貸してもらった楽譜をコピーしてもらい、目を通した後に(楽譜は読めないのだが)、図書館に置いてあった唯一の日本語の本「若草物語」を読んでいた。 

 Mrs. Buschが図書館に入ってきて、図書館の司書と少し雑談をした後、私の座っていたテーブルに来た。 


  リョーシロー、クリスマスは日本の家族と過ごせるの? 

  良かったわね。気をつけて帰ってね。 

  私はね、この学校、今日で最後なの。 

  This is my last day in this school. 

  So, bye-bye, Ryoshiro 


と言って、微笑んで図書館を出て行った。 

 こういう時にはBye-byeと言うんだなぁ、と思ったのを覚えている。 


 Mrs. Buschと図書館で別れた次の日、私は一時帰国し3週間のクリスマスホリデーを過ごした。日本に帰ると、様々なものが変わっていた。日本の高校の同級生の多くは大学受験を意識するようになっていたし、ガールフレンドをつくったり、新しいバンドを組んでいたりした。私は、日本の高校にはもう居場所がないような気がしていた。このまま一層の事、オーストラリアの高校を卒業しようかと考えつつあった。 


 とはいえ、他にするべきこともなかったので、私は、毎日のように日本の高校の友人と会い、友人の新しいバンドの年末ライブを聴きに行き(JUDY AND MARYのコピーバンドだったな)、ラッキーストライクを吹かし、安物のワインを飲んだ。 

 オーストラリアの生活にも慣れたし、日本に居場所があるわけでもない。それに、もう帰ってきたいとも思わない。このまま、向こうの高校を出て、オーストラリアで就職しよう。そう、思うようになっていた。 

 次の年の6月、私が世話になっていたホストマザーにMrs. Buschは亡くなったと聞いた。癌だったそうだ。 

 異国の地に、私の居場所を作ってくれた恩師だった。すこし生真面目すぎて厳しい先生だったけれど、私が音楽を好きなことをよく理解してくれて、そういう得意な分野を伸ばすように教えてくれた。その、Mrs. Buschが亡くなってしまった。 

 だから、先生はあの時私にBye-byeと言ったんだ。 

 Mrs. Buschは最後に、“Bye-bye”というフレーズの使い方を私に教えてくれた。 

Ryoshiro Sasaki

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