砂漠の雨の話(イシイシンペイ)
「今週、雨が降るらしい」
こんな書き出しの原稿を、ぐずぐず出さないままにしていたら、雨のほうが先に降ってしまった。先週ちょっと降って、昨晩も激しい雷雨だった。実に半年ぶりの降水だ。調べてみると、ロサンゼルスで今年最後に雨が降ったのは3月22日だという。掛け値なしにずっと晴れていた。
モンスーンの多湿の中で育った私にとって、半年続く晴天など生まれて初めての経験だが、率直に言って大変快適だった。外で何かするとき、雨の心配をする必要が全くない。汗のベタつきがないので、ともすれば夏場は日に三度も水浴びするような「風呂中毒」だった私が、うっかりするとシャワーを浴び忘れて寝てしまう。それくらい、乾いている。
こんな土地に1,800万人ともいわれる巨大都市(広域ロサンゼルスGreater Los Angeles)が成立するのは一体どういうわけか。ロサンゼルスの生命線は、北方のシエラネバダ山脈や、さらに遠く東のロッキー山脈水系からはるばる引っ張ってくる雨水と雪解け水だ。長いところでは350kmを超えるような人口水路が、砂漠の街へ向けて毎日水を運んでいる。日本の信濃川の長さが367kmとされているから、ロサンゼルスは日本最長の川に匹敵するものを自分で作ってしまったことになる。それも何本も。
いつの間にかここに来て一年が経ち、慣れてしまった部分もあるが、「ここにあるはずのない水と緑」は一貫して私の違和感の対象だった。こんなに雨が降らないのに、街中の芝生は青々として、公園では高々と噴水が上がり、アパートでは配管が漏水しまくり(これはボロいアパートに住んでるせいだが……)、この街大丈夫か?とよそ者ながら心配になっている。
こんな関心があったところに、「カリフォルニアの水問題の将来」というシンポジウムが開かれると聞いたので、行ってきた。結論として、全然大丈夫ではなかった。
カリフォルニア大学ロサンゼルス校の環境学の先生が司会するパネルディスカッションには三人のゲストが呼ばれていた。
まず一人目の若い科学者は、データを多用したスライドで、基本的な現状認識と将来予測を提示した。彼によると、気候変動についてこのまま何の対策も取られなければ、今世紀末には、水源地帯である山岳部の降水時期が数ヶ月早まり、雪解け水を供給する根雪の総量も激減するという。また、年ごとの変動幅が増大して、異常に雨が降る年と異常に乾燥した年が繰り返されている、という指摘もあった。
二人目のパネリストは、中部カリフォルニアで安全な水を供給することに取り組んでいるNPOの人だった。彼女たちが活動する中部カリフォルニアの平原地帯は、肥沃な農地として知られる一方、慢性的な貧困と公害を抱えた地域でもある。安全な水道のインフラがないため、貧困層の家庭(その多くがヒスパニックの労働者である)では、収入の1割をミネラルウォーターの購入に当てることもざらだという。水不足や地下水のヒ素汚染で、学校が閉鎖されるような事態も多発しているそうで、「このパネルには将来(Future)という単語が使われているけど、問題は既に今(Now)起きているんです」という発言が印象に残った。「ロサンゼルスの中でだって、貧困区では茶色い水しか出ないでしょ」と。
三人目はロサンゼルス市の衛生局の人で、行政の取り組みについていろいろと解説していた。正直に白状すると私はここで激しい睡魔に襲われたため、彼の話をまともに聞けていないのだが、終始フランクな語り口で笑いも取っていたのが印象に残っている。乱暴に要約すると「すべての問題には解決策がある! そして金がめっちゃかかる! ご理解よろしく!」という話だったように思う、たぶん。本当に彼の言う通り予算をかければ水問題が解決に向かうのかはよく分からないが、聞いているとなんだかポジティブな気分にさせられてくるのが、実にアメリカ的である。公務員があけすけに市民とコミュニケーションしている姿が新鮮で、日本でもこういう振る舞いがもっと広がるといいと思った。
短い時間ではあったが、学者、NPO、行政という異なる理性を持った三者から話を聞くことで、水問題について「社会」がどう向き合っているのか、一例を垣間見ることができた。街で生活しているだけではこういうことはなかなか分からないので、足を運んで良かったと思う。なお、トランプ率いる連邦政府は気候変動対策の国際枠組み(パリ協定)から離脱してしまったが、カリフォルニア州は他の数州とともに枠組みに留まることを表明している。
さて、膨大な労力でみずみずしい緑を保ち、住民の目を楽しませているロサンゼルスであるが、ずっとその中にいるとある種の感覚が鈍ってくる。そんなときにはどの方向にでも一時間ほど車を飛ばせば、広大な自然保護区でつきづきしく白茶けた砂礫にまみれることができる。今年に入ってハイキングにたくさん行くようになったおかげで、どこまでも広がる砂漠地帯が、実は生命にあふれる豊かな大地であることもだんだん分かってきた。
豊かさの現れの一つが、前に沼ZINEにも書いたように、山火事に適応した植物相の存在だ。半身焼け焦げながら元気に枝葉を伸ばすセコイアや、焼け跡を覆い尽くす灌木の勢いは、「燃やされること」すら前提にしてしまえる、この地域の生態系の力強さを象徴している。
ただ、ここ数年の大規模かつ頻繁な山火事については、生態系の回復が追いついていないのではないかと憂慮されている。私が去年ここに来てからに限っても、「観測史上◯番目にひどい」と言われるような火災が何度も発生している。一度などは、登ろうと思っていた山が火事で閉鎖になって、別の山に行き先を変更したら、そこも燃えて、計画がおじゃんになってしまったなんてこともあった。
冒頭の写真を説明していなかったが、これは今年燃えてしまった山の一部を、別の山から撮影したものだ。黒くて見えにくいかもしれないが、丸っきり禿山になってしまっている。焼け残った緑との境界線がうっすら赤いのは、ヘリコプターから撒かれた消火剤の色である。一山まるごと、このあたりでは珍しい森林リゾートとして有名な場所だ。その場に立ってみると、下の写真のような炭と灰の世界である。
わずかに見られたのは、見事に焦げた石に擬態したトカゲと、土に潜って熱を避けたと思われるゴミムシダマシ(甲虫の一種)だけだった。
先週と今週の雨はここにも降っている。保水力ゼロになった焼け跡斜面に少しでも雨が降ると、地面に染み込む前に一気に流れ下る。撮影場所の近辺でも洪水と土石流の警報が出たようだ。幸い大事には至らなかったようだが、生き残った小動物や、これから芽を出そうとしていた植物の種がどうなっただろうか。今度の週末にでも、また様子を見に行きたいと思う。
※上述のシンポジウムについてはハマー美術館のウェブサイトでビデオ記録を視聴可能。
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