港と本屋と湿地帯(イシイシンペイ)
週末を使ってサンフランシスコに行ってきた。大変面白かったので、そのときのことを書きたい。
行く前はサンフランシスコについて何も知らなかった。3日前に急に思い立って夜行バスを予約し、それから初めて「サンフランシスコって何か見るものありますか」と周りに聞いて回った。
行き先はどこでもよかった。やけっぱちだ。去る8月、今シーズンの目標としていた3,000m峰を登頂したのは良かったのだが、その後なんだか燃え尽きたようになってしまい、9月、10月は休日も部屋でなんとなくパソコンばかり見ていた。2ヶ月もそんなことを続けていると、感情も落ち込んでくるし、体調もパッとしない。沼ZINEに書くネタも切れがちだ。これ以上無気力に浸っていたらダメになる。ちょうど代休で三連休ができたのをこれ幸いと、逃げるように深夜のバスターミナルに向かった。
動機はともあれ、いざ行ってみると、見るもの聞くものみな新鮮だった。期待していなかったぶん良く見えたというだけではなく、じっさい魅力的な街だった。知らない場所でゆっくり考え事でもしようかと思っていたのに、面白くて毎日へとへとになるまで歩き回ってしまった。旅のディテールを全て追うと、とても書ききれない。特にときめいたポイントだけに絞って報告しようと思う。
まずは地形である。サンフランシスコは、内陸に巨大な湾を抱え込んだ半島の先に位置している。人間の口の断面図を思い浮かべれば、「下の歯」がサンフランシスコである。それを対岸から伸びる「上の歯」の半島につないでいるのが「ゴールデンゲートブリッジ」だ。私も名前くらいは聞いたことがある、というか中学か高校の英語の教科書に出てきた。この海に囲まれた街では、太平洋の寒流とカリフォルニアの日差しの温度差によってよく霧が出るため、「Fog City」というキャッチフレーズがあるらしい。私が行ったときはよく晴れていたが、たしかに植生はロサンゼルスより随分みずみずしかった。
また、「坂の街」としても有名で、街の中をケーブルカーが走っている。路面電車ではない。平たい道路にはごく普通の路面電車も走っているが、それとは別に鋼の綱で斜面を上り下りするケーブルカーがあるのだ。筑波山や東京の御岳山にあるあれである。
そのものすごい斜面に、瀟洒な住宅が櫛比している。こんな傾斜のきつい場所に自然に街ができるわけはなく、黎明期によほどカネとヒトを引きつける要素があったことが伺える。あとで調べると、19世紀のゴールドラッシュと、20世紀の軍事需要が、サンフランシスコの成長の二大画期となったようだ。日本でいうと横浜の山の手や函館山に似た街並だが、いずれもアメリカの圧力で流れ込んだ外資により急膨張した都市だというのが面白い。
この坂の街を、着いたばかりでよく知らないまま「貸自転車で街巡りしたら楽しいかも」などと考えたのが運の尽き、次から次へそびえる坂地獄を堪能する羽目になった。海辺には貸自転車屋が何軒もあって、店のラベルがついた自転車に乗った観光客がそこらじゅうで楽しそうにしている。ローカルの自転車乗りも多い。しかし彼らがキャッキャウフフしているのはあくまで平坦な海辺のサイクリングロードだけである。私のように等高線を読まずに数多の丘をまっすぐ越えようとする馬鹿は一人もいない、と気づいたときには激坂の半ばにさしかかっていた。こちとら何をするにも腰が重いタチだが、いったん始めたことを途中でやめるのもまた苦手である。登り始めたら最後まで登るだけである。
酸欠で思考が働かなくなったのか、ふだんの生活で萎えた足がぶるぶる痙攣するのが無闇におかしく、ニヤニヤしながら青い顔で坂を登る気持ちの悪い私。誰もやらない方法で数日間行き当たりばったりに走り回って、足腰はズタボロ。ただそのぶん、短時間にしては「面」の把握ができたように思う。
思えば学生時代はカネがなかったので、どこを旅行しても「とりあえず明るいうちに街の端から端まで歩く」というのが決まった過ごし方だった。犬も歩けばなんとやら、歩き続ければ何か面白いものに当たるのである。サンフランシスコもまた、面白いものがたくさん隠れている、打てば響く街だった。
縦横に走り回る中で気づいたのは本屋の多さである。ロサンゼルスと比べて、独立系で頑張っている書店が目につく。少し前にある筋金入りの本好きから「サンフランシスコの本屋は面白い」と聞いていたので、気にはなっていた。で、行ってみたら本当に面白かった。後で考えたらここは世界的なカウンターカルチャーの震源地なので面白いのは当たり前なのだが、無知というのは幸せなもので、手当たり次第に本屋に飛び込みながら、自分の力で名所を開拓しているような気分を存分に味わった。
なんだかんだ6店巡った中でも、最高だったのがRussian Hill Bookstoreという店だ。ネット上では日本語の情報がないようなので紹介しておきたい。ロシアンヒルという丘の上のオシャレなエリアに偶然見つけた小さな店で、一旦自転車で通り過ぎたのだが、横目に映ったたたずまいがあまりに素敵だったのでわざわざ引き返して敷居をまたいだ。
一歩足を踏み入れた途端、いい店だということが体の感覚で分かる。入り口左手の最初に目に入る棚はサンフランシスコ関連の地元本。観光客に嬉しい配置だが、これは観光客に配慮したというよりは、単純に店の人が地元を大事にしているということだろう。新刊と古書がごっちゃに差された書架には、興味を惹かれるタイトルがずらっと並んでいる。しっかりした目利きが責任をもって本を選んでいるのが、外国人である私にも伝わってくる。
地元本の棚で私にも読めそうなものに2、3目星をつけつつ、奥に進む。フィクションに負けず劣らず、人文科学系の本も充実しているのが嬉しい。アメリカで「自然保護の父」と呼ばれるジョン・ミューアの著作や、求めていた関連書籍がたくさんあり、気がついたら何冊も抱えていた。この重さを背負って宿まで自転車を漕ぐのは大変なのだが、もうそんな理性はどこかへ飛んでいる。
アート系書籍や、雑貨の充実もすごい。
いつもは美術書など見てもよく分からないのだが、この日は直前にサンフランシスコ近代美術館というメジャー級の美術館でたらふく現代アートを貪っていたので、妙にアンテナが立っていた。ざっと流し見して他の棚へ行く気だったのに、どうしても目が話せなくなってしまったのがクリフォード・スティル(Clyfford Still)という抽象画家のカタログだ。サンフランシスコ近代美術館でこの人の絵がまとめて展示してある部屋があり、独特の空気にすっかり呑まれてしまったばかりだったのだ。大判本の重量に非常に迷ったが、これも何かの縁だと思い切って他の本と一緒にレジに持って行った。
レジで対応してくれたのは感じのいい人で、手際よく値段を打ち込んでくれていたが、件の画集を見ると手が止まった。「これ、私の大学の先生なんだよね…」という。え、そんなことあるんですか。店員さんが言うには、若い時通っていた美大にスティルが教えに来ていたのだという。さっき美術館で一目惚れしただけなんだけどいい絵ですね、と伝えたらにっこり笑っていた。本当にいい店だった。
最後に、クリッシー・フィールド(Crissy Field)について書きたい。これも、自転車でうろつかなければまず気づかなかっただろう穴場だ。
市の北東部、有名なフィッシャーマンズワーフのある賑やかな港湾地区から、海岸線沿いに西寄りのゴールデンゲートブリッジまで、気持ちの良い自転車道が整備されている。有名な橋を近くで見ようと、海風に逆らって一生懸命ペダルを漕いでいると、突然、右手に広がる芝生が灌木の茂みに変わった。
茂みの向こうを覗くと、さっきまでの砂浜とは雰囲気が違う静かな水面が広がっている。どうやら小さな入江を囲って保護区にしてあるらしい。自転車道から細い遊歩道が枝分かれするところに「クリッシーフィールドへようこそ」という控えめな札が下がっている。呼ばれている気がして、自転車を押して入ってみる。
素晴らしかった。純白のコサギが流木の上で休んでいる奥で、人の背丈くらいの大きなアオサギが水面をじっと睨んでいる。浅瀬ではダイシャクシギの仲間が細長く発達したくちばしを何度も砂に突っ込んでエサを探している。遠くの砂州ではカッショクペリカンとカモメ、ウミウの混群が同じ方角を向いて日なたぼっこ中だ。草むらの中ではムクドリやヒワ等の小鳥たちがピーチクパーチクやかましい。レイチェル・カーソンの描写を彷彿とさせる海岸の光景である。最初のヨーロッパ人が訪れた数百年前までは、湾岸一帯がすべてこんな景色だったに違いない。
日本だろうがアメリカだろうが、大都市の海岸はどこもコンクリ護岸と埋め立てで「利用」され尽くしているのが普通である。こんな良い環境がごく一部でも残されているのはどういうわけだろうか、と思って道端の案内板を読んでいたら、考え違いだった。この小さな海岸湿地は「残されている」のではなかった。「再現された」ものなのだった。
案内板の説明曰く、このあたりはかつて軍の飛行場として使われていた跡地で、90年代まで有害物質による汚染も深刻だったという。2000年台初頭にゴールデンゲートブリッジ周辺の公園整備の一環としてかなり費用をかけて今の形に復元したそうだ。思い返すとたしかにあの唐突なだだっ広さは、昔滑走路だったと考えれば腑に落ちる。
こういう開発と保全のダイナミズムを見ると、さすがアメリカというか、壊すのも直すのも一流だなあという気がする。もちろん直す動きのほうがずっと小さくて、全体的には相変わらず壊すほうに進んでおり、無闇に称賛するつもりもないが、個別の事例から学べるものは素直に学びたい。
どこでもいいやと飛び出した旅だったが、大いに好奇心を刺激された。普段暮らしているロサンゼルスは車の街で、どこに行くにも出発地から目的地まで高速道路でワープするだけ。街を歩く楽しみというのは非常に限られている。サンフランシスコでは週末+αでずいぶんあちこち回ったつもりだが、まだ見られていない区域がいくつもある。また何かで煮詰まった頃に再訪したいと思う。
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