花壇の昆虫記(イシイシンペイ)
私が仕事をしているオフィスビルの前庭には大きな花壇が設けられている。花に勢いがなくなってくるたびに庭師たちが新しい株に植え替えるので、一年中何かの花が咲いている。管理会社が緑地の手入れを一生懸命やるのは、見てくれが悪いとビルの不動産価値が下がるからだそうだ。職場の前で花が咲き乱れていることで気持ちが明るく保てて非常にありがたい反面、植えられているのはブーゲンビリア、アイリス、ランタナといったいかにも頑強そうな園芸品種ばかりで、土壌も常に撹乱されているので、生き物好きとしてはいささか殺風景な環境でもある。
しかし、最初は白茶けて親しみにくい人工都市にしか見えなかったロサンゼルスが、その中で一年間過ごすことでナマの人間が暮らす血の通った街として感じられるようになってきたのと同じように、このつまらない花壇も一年間見続けていると、意外に多くの生き物たちがしぶとく居場所を築いていることが分かってくる。
仕事をしているときは日に何度も花壇の前を通る。駐車場から自分の事務所へ向かうとき、コーヒーを買いに出るとき、花壇の壁や地面に貼り付いてもぞもぞ動いている小さき者たちが目に入ってくる。本当はそのたびにしゃがんで観察したいのだが、そこはオフィスビルの正面玄関、人通りが多すぎてたいていは横目で存在を確認するだけにとどめている。稀にガードマンが近くにいないときはものを拾うふりしてスマホで写真を撮ったりもする。何の隠密行動なのか自分でもよくわからなくなるが、他に地面に注意を払っている人など絶無である中で一年以上そんなことを続けているので、もしかするとこの花壇の生物相については私が世界一詳しくなってしまったかもしれない。今回はその貴重な観察の一端を報告したいと思う。
最初にここで見た生き物が何だったかは覚えていない。たぶんケシ粒のような小さなアリだったんじゃないかと思う。私がロサンゼルスに来たのは秋口の10月で、小動物の活動が下火になっていく季節である。初めての土地で「なんにもいないなあ」と寂しくなったのを覚えている。
その秋の唯一の記憶は一匹のハエトリグモだ。私が虫好きだと知った同僚が「イシイさんイシイさん!」と呼ぶので外に出てみると、小指の先くらいのハエトリグモが階段の手すりできょとんとしている。「ブラック・ウィドウ(毒グモ)ですかね?」と心配そうに聞かれたので「いや、ジャンピング・スパイダーですね。人間には何もしません。もじゃもじゃで眼が大きくてかわいいので日本では写真集も出ているんですよ。ほら、クモには珍しく視力にすぐれるのでこっちを見てます」と答えると「へー」と言われた。
それから春まではあまり何も見なかった。
短い冬が終わって3月に入ると気温も上がって、私も当初の緊張を抜けて周りを見渡せるようになってきた。国は違えど啓蟄のころ特有のもぞもぞした雰囲気はここにもある。このころからあちこち山にハイキングに出かけるようになり、いろいろな乾燥地の生き物に親しむようになったが、例の花壇まわりでこのころ目についたのはカタツムリである。ビルの壁や花壇の仕切りなど、垂直な面にくっついてじっとしている。ロサンゼルス自然史博物館の実施するオンライン分布調査に写真を送ってみたところ、Cornu aspersumという地中海沿岸から世界中に広がった外来種であろうという推定が返ってきた。もしかしたら昔南フランスでファーブルの家を訪ねたときに庭に大発生していたカタツムリと同じ種かもしれない。ロマン。花壇は毎日水がまかれるし、殻の成長に必要なカルシウムは周りのコンクリートから摂取できるので、彼らのように強い種にとっては居心地がいいのかもしれない。
同じ頃、トイレの壁にでっかい「カ」が止まっているのも見かけた。乾燥しているので暑いわりに「カ」の少ないロサンゼルスだが、三月までは雨が降るのでどこかにたまった貴重な水から発生したのだろう。はかない姿をよく見れば、惚れ惚れするほど機能に徹した美しいデザインである。
この連載の初回に書いたハチドリの死体を見つけたのもこの頃だ。
死体を見つけた翌週には、打って変わって輝くようにみずみずしいアオムシがコンクリートの上を這っているのも見た。緑のジェリービーンズのようにむちむち成長しきっていたので、蛹になる場所を探しているのではないかと思い植え込みの暗がりに戻しておいたが、無事に成長しただろうか。
4月に入るともう一気に夏模様で、ピーカンの日差しの下、テントウムシの幼虫が異常発生した。歩道を柔らかい体でよたよた這い回るので容赦なく通行人に踏み潰されていたが、これもまた一人として気にする人なし。エサとなるアブラムシがそんなにたくさんいない中で突如として大発生したので、生物農薬として庭師が散布したのかとも思ったが、製品として売られるのは成虫らしい。いつのまに卵が産み付けられていたのだろう…と首をひねっているうちに、通路に点々としたしみだけ残して彼らはいなくなってしまった。
気温が上がると大きめの昆虫も現れる。パソコンの5月のフォルダには、花壇に飛んできたかっこいいカメムシとバッタの写真が残っている。羽根の長いバッタは、ロサンゼルスの「裏山」たるハリウッドの丘(アルファベットの看板あるとこ)と同じ色をしている。あのあたりからはるばる飛んできたに違いない。足のウロコ状のディテールとか胸部の色分けとか、砂地で目立たないためのカモフラージュを極めつつ、服飾にも応用できるレベルのおしゃれさだ。
同じ場所で秋ごろ撮影した幼虫はさらにアバンギャルドである。インスタに上げたら知らないアメリカ人からけっこう反響があった。やはり虫のかっこよさは洋の東西を問わない。
7月以降はとにかく暑くて乾いており虫の姿は減るのだが、花壇には常に花があるのでミツバチや、高速で乱れ飛ぶセセリチョウの一種が目を楽しませてくれる。また、昼間は日光が強すぎても夜に活動するものは多いようで、常夜灯の下で音もなく一筋流れていくアリの行列を見たのもこのころだ。ビルで働く人が皆帰ってしまった後、光沢のある体でちらちらと月明かりを反射しながら進む物言わぬ大群の姿は実に神秘的だった。
また、自分の眼が未熟で良さを読み取りきれていないのだが、年間を通じて壁やガラス窓にはちょこちょことハエやガなどの小さな羽虫がくっついている。こうした目立たないやつらについても知識を備えていけば、さらに世界の解像度を上げることができるだろう。今年はちょっと本腰を入れて勉強していこうと思っている。
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