マンザナー巡礼参加報告(イシイシンペイ)
4月の終わり、マンザナーを訪れた。マンザナーは戦時中に米国政府により10ヶ所建設された日系人・在留日本人(※1)の強制収容所のうちのひとつがあった場所である。1942年から1945年の間、米国西海岸で生活していた人々を中心にのべ1万1000人以上が収容された。当時、日系人・在留日本人を隔離する表向きの理由は「軍事上の不安」とされたが、同じく敵国であったドイツやイタリア出身の人々にはこのような措置は行われておらず、人種差別に基づく不当な措置であったことが今では公的に認められている。
マンザナー収容所跡地は現在国の史跡として保存されており、年に1度この時期に「巡礼の日」として記憶のためのセレモニーが行われている。今回「巡礼」に参加したのは日系企業商工会が主催するバスツアーの一環だった。商工会の会報にも感想文を書いたのだが、読者は重ならないと思われるので改稿してこちらでも報告することにする。
毎年行われているこのツアー、昨年は仕事があって行けず、今回は満を持しての参加である。ロサンゼルスで暮らしていると、中心部のリトルトーキョー地区でラーメン屋を物色しているときや、仕事で日系の人と打ち合わせしているときなど、ふとした瞬間に「internment camp(収容所)」という言葉が歴史的な重みを持って目の前に現れてくる。米国滞在中に一度は足を運んでおかなければならないと思っていた。
マンザナーはロサンゼルスから北へ5時間ほど車を走らせたところにある。ひと山越えた東側には「地球上で最も暑く乾燥した場所」と呼ばれるデスバレー国立公園が広がり、西側には4,000m峰を擁するシエラネバダ山脈がそびえるという、2つの極端な環境に挟まれた荒野だ。現在はほとんど誰も住んでいない。
「そろそろ到着です」のアナウンスに目を開けると、バスは雪をかぶった秀麗な山脈を左に仰ぎながら、白茶けた半砂漠の中を走っていた。駐車場に着いてまず驚いたのは車の数。我々以外にも観光バスがたくさん来ている。後の報道によるとこの日の来訪者は2,000名以上。全米各地の日系コミュニティに加え、ラテン、アフリカン、ネイティブアメリカンといったエスニックコミュニティや、ムスリム等の宗教コミュニティにも広く参加が呼びかけられたという。たしかに周りを見回すといろいろな顔つきの人が行き交っている。この問題を日系コミュニティだけの出来事にとどめず、アメリカ全体で考えていきたいというのが「巡礼」の狙いなのだろう。
同じバスの皆さんと集合写真を撮ったら後は自由見学ということなので、どうやって回ろうか少し考える。場の中心は白い慰霊碑の前に張られた大きなテントで、来賓のスピーチが続いている。着いたときには国立公園局の偉い人がしゃべっていて、アメリカの国立公園局といえばハイキング好きの私にとって「自然を守る役所」なのだが、当然こういう文化遺産も管轄しているのだ。もらった式次第を見るとスピーチだけでなく、歌や踊り、お祈りの時間もあるらしい。興味深いけど、それを見ているだけで帰りの集合時間になってしまいそうなので、まずはテントを離れて跡地を歩いてみることにした。
歩いてみるといっても、ものすごく広い。有刺鉄線で囲まれて1万人が押し込められた敷地は約3平方キロ。収容された人々にとっては狭い狭い牢獄だった一方、そこは即席ながら病院や学校もあった小さな町だった。ほとんどの施設が撤去された今、だだっ広さが際立つ。それだけ大規模な収容だったということである。日差しがきつく、水筒がなければ熱中症必至だ。柔らかい砂地に足をとられるのも非常に骨が折れる。海岸を猛ダッシュする格闘家の映像を思い浮かべながら、のろのろと歩く。
一面の荒れ地の中には点々と当時のバラックが復元されている。それぞれ黒いタールで塗られた木造の建物に入ると、居住棟、病院、学校といった内装が再現され、詳しい解説パネルで当時の様子が学べるようになっている。居住棟もトイレも当初は仕切りがなく、収容者たちが自分で板や布を張ったという話や、頻繁に発生する砂嵐で家の中まであらゆるものが砂だらけになったという話が印象に残った。
敷地の入口に建っているビジターセンターは当時の体育館を改装したもので、資料満載である。収容に至る社会の雰囲気や、収容所内の事件、管理の様子など、当事者の声をふんだんに交えながら展示されている。衣食住の貧しさはもちろんのこと、何より不当に自由を奪われたということによるストレスがどれほどであったか、ちょっと想像が及ばない。
歩きまわる中で特に興味を惹かれたのは「庭園」の跡だ。収容所内に日本庭園があったということを、ここを先に訪れた方から聞いていて、ぜひ見たいと思っていた。一面平坦な砂地の中で少し木立があるあたりに見当をつけて歩いてゆくと、突如、モルタルをひいた池の跡が現れた。狭いながら島や橋も作ってあり、自然石を並べて景色に変化がつけてある。説明のパネルには、技術のある収容者が人々の慰めのために何箇所か造成し、苦労して水を貯めたと書いてある。酷暑の時期にもここで涼むことができたという。今は水のない池の底部に、小石を並べて「1942年8月7日」と数字が記してあるのを見つけた。完成の仕上げに、小石をひとつひとつ埋め込んでいる庭師の姿が目に浮かぶ。そのとき、どんな気持ちだっただろうか。
さらに池の縁石を調べていると、Painted Ladyと呼ばれる蝶(ヒメアカタテハ)の蛹(さなぎ)がぶら下がっていることに気がついた。別の石の上では美しいトカゲがのんびり日光浴している。「巡礼」が終わればここはまた静かな日常に戻っていく。
人の記憶もまた放置すれば静寂に埋もれていったはずであるが、現在この強制収容の記憶はアメリカ史の一部として確実に記録されている。この記憶の継承について詳しく書くスペースも能力もないが、過去の不正義を正すために世論に訴えて連邦政府を動かしたのは日系コミュニティの不断の運動だったことはたしかである。今回の「巡礼」のおよそ1ヶ月後、首都のスミソニアン博物館群に、アジア系アメリカ人の歴史・文化に関する常設展示スペースを増設するため、資金集めが始まったと報道があった(※2)。この新たな動きの中で、「アジア系」の内蔵する複数のエスニシティはどのように位置付けられていくのだろうか。日本でもあらためて多様性の尊重(と軽視)が話題になる中、注目していきたいと思う。
※1 一般に「日系人強制収容」と呼ばれる事件だが、収容された人々には、帰化を認められず「日本人」であった多くの移民一世が含まれるため「日系人・在留日本人」とした。
※2 NBC Newsより
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